江戸時代の堅田と堅田藩、大庄屋と居初氏について(前編)

先日当ブログでご紹介した報告会、「江戸時代の堅田と堅田藩」(2016/1/31開催)に行ってきました。科研費の出ている研究なので、いずれ何らかの形で広く公開されると思いますが、差し支えのない範囲で当日の報告内容を一部ご紹介したいと思います。

その前に、堅田藩について当ブログよりご紹介します。堅田藩の当主は堀田家(佐倉藩堀田家の分家)です。時代劇によく出てくる?老中の堀田さんの一族なんですね。

堅田藩とは言っても、天守閣のある立派な城を作ることが許されたわけではありません。城の無い大名(無城大名)なので、役所があった場所は「陣屋」と呼ばれます。堅田藩陣屋があったのは、浮御堂に近い場所でした。

文政8年(1825)ごろの本堅田村の状態(堅田藩陣屋跡の案内板より)
堅田藩の初代藩主は堀田正高(まさたか)という人物で、その父は徳川綱吉に仕えた大老・堀田正俊(まさとし)でした。

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琵琶湖と内湖(ないこ)に囲まれた水の町、堅田(堅田四方と宮の切、水辺の地蔵堂)~古絵図で見る堅田(2)

前回より、江戸時代(延宝5年)に作られた本堅田村絵図をもとに、
琵琶湖の畔にある堅田の町をご紹介しています。

堅田といえば、
室町時代には、町を挙げて蓮如上人を匿って延暦寺(室町幕府)と戦ったり、
20-30代の一休さんが修行して浜辺で悟りを開いたり、
江戸時代には芭蕉さんが足しげく通ったりと、何かとエピソードの多い町です。

※堅田の話は堅田の歴史・よもやま話にまとめています。
なんだか気になる・・・と思った方は、リンク先のバックナンバーをどうぞ。

私自身、2006年から堅田を撮影してきた中で、沢山の歴史に触れてきました。地元の皆さまからお話を伺う機会をいただき、お便りもいただいて、本当に感謝しています。

堅田の歴史の話はまとまったものが殆どなくて、埋もれさせてしまうのはもったいないと思い、以前のように通えないこともあって、今のうちに何とかまとめておこうと書いています。

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宮ノ切と堅田陣屋 ~Honkatata/本堅田 115(2)

宮ノ切の地蔵堂と石段と柿の木

江戸時代、「宮ノ切」は堅田陣屋(いわゆる堅田城※)の一部となりました。本堅田1丁目(2丁目との境界付近)には、環濠のなごりが水路としてわずかに残っています。

「きり」とは、室町時代に琵琶湖岸に築かれた石垣のことで、防御塁とされました。室町時代の堅田には「宮座」が設けられ、「きり」が築かれたのです。

「宮座」とは、室町時代の自治組織で、中世の日本(特に西日本)に現れた、古い氏子の氏神祭祀に関する特権的団体でした。宮座の構成員である座衆は、封建社会を通じ、村の家柄として村政一般にも権力を振るいました。堅田の宮座は、地侍である殿原衆によって運営されました。

「宮ノ切」が最初に築かれ、さらに「東ノ切」「西ノ切」「今堅田切」へと発展し、これら4つで堅田が形成されました。

※近江国(滋賀県)では、彦根城、水口城、膳所城以外の築城は許されていなかったので、「陣屋」と言うのが正確。

堅田(滋賀県大津市)の写真 本堅田 「宮ノ切」 2008.10.02 15:29

The “Miyano Kiri” was  1 component part of the Katata castle in the 18th century .
Shogunate Government of Edo didn’t permit building a castle, so it’s correct to call jinya(陣屋).Even now, the vestiges of the annular waterway  remain in Honkatata 1 chome (around the boundary with Honkatata 2-chome) slightly as a waterway.In medieval Japan (in the 16th century,especially western part of Japan),the exclusive organization about the festival-of-the-village-god festival of an old parishioner called Miyaza(宮座) appeared.The constituent of the household head called Zasyu(座衆) shook power at the general politics of the village as birth of a village through the feudal society.Miyaza appeared also in medieval Katata. Miyazas in Katata were managed by Tonobarasyu(殿原衆) which consisted of native samurais in Katata.The stone wall was built to the Lake Biwa shore, and it is “Kiri(きり、切)”.The “Miyano Kiri” was built first, it developed into “Higashino(east) Kiri”, “Nishino(west) Kiri”, and “Imakatata Kiri”,and Katata was formed in these four.|photograph of Katata,Otsu,Shiga,Japan Honkatata “Miyano Kiri” 2008.10.02 15:29


堅田陣屋と堅田藩

堅田藩の初代藩主・堀田正高(ほったまさたか)の父は、堀田正俊(まさとし)。徳川綱吉に仕え、大老を務めた人物である。貞享元年(1684年)8月28日、正俊は、江戸城中で稲葉正休に暗殺される。

三男だった正高は、父・正俊の遺領のうち下野佐野(栃木県)1万石をもらうが、元禄11年(1698年)3月7日、所領を近江堅田(滋賀県)に移され、堅田に陣屋を設置する。これが堅田藩、そして堀田家(佐倉藩堀田家の分家)の始まりである。

藩政の基礎は、第3代藩主・堀田正永(まさなが)の頃までに固められた。

第6代藩主・堀田正敦(まさあつ)は、仙台藩主・伊達宗村の八男。堅田藩主になった後、若年寄として、松平定信の寛政の改革を助け、仙台藩主が死去したときは、若い次期藩主の後見役となって、仙台藩の藩政を担った。

このほか、湯島聖堂再建の副奉行をし、『寛政重修諸家譜』(大名・旗本・御家人の家系図の本)の編纂を務め、鳥類学者として本を遺したり、視察のために蝦夷地(北海道)に足を運んだりもしている。

藩主・正敦の功績で、文化3年(1806年)、堅田藩は3,000石を加増され、1万3,000石になった。さらに、文政8年(1825年)4月には、堅田藩は「陣屋」から「城主格」に、一段階昇格する。

しかし、文政9年(1826年)10月10日、正敦は(初代堅田藩主・正高の旧領である)下野佐野へ所領を移されて、堅田藩は廃藩となった。もっとも、堅田の所領のうち滋賀郡領は、佐野藩の飛び地として幕末期まで受け継がれた。

Honkatata/本堅田 115

宮ノ切の地蔵堂と石段と柿の木

中世の日本(特に西日本)には、宮座と呼ばれる、古い氏子の氏神祭祀に関する特権的団体が現れた。宮座の構成員である座衆は、封建社会を通じ、村の家柄として村政一般にも権力を振った。中世の堅田にも宮座が設けられ、琵琶湖岸に石垣を築き、防御塁とした。これが「きり」である。

「宮ノ切」が最初に築かれ、「東ノ切」「西ノ切」「今堅田切」へと発展し、堅田が形成された。戦国時代、「宮ノ切」は堅田城の一部となった。本堅田1丁目には、環濠のなごりが水路としてわずかに残っている。

In medieval Japan (especially western part of Japan), the exclusive organization about the festival-of-the-village-god festival of an old parishioner called Miyaza(宮座) appeared. The constituent of the household head called Zasyu(座衆) shook power at the general politics of the village as birth of a village through the feudal society.Miyaza appeared also in medieval Katata.
The stone wall was built to the Lake Biwa shore, and it is “Kiri(きり、切)”.The “Miyano Kiri” was built first, it developed into “Higashino(east) Kiri”, “Nishino(west) Kiri”, and “Imakatata Kiri”, and Katata was formed.

The “Miyano Kiri” was  1 component part of the Katata castle in the 16th century .
Even now, the vestiges of the annular waterway  remain in Honkatata 1 chome slightly as a waterway.

堅田(滋賀県大津市)の写真 本堅田 「宮ノ切」 2008.10.02 15:29
photograph of Katata,Otsu,Shiga,Japan Honkatata “Miyano Kiri” 2008.10.02 15:29