松尾芭蕉と堅田1:芭蕉の句碑5か所と宝井其角寓居跡(滋賀県大津市本堅田)・芭蕉と大津

本福寺にある千那の句碑

堅田と芭蕉:

芭蕉が大津に来たきっかけとなったのは、 本堅田にある本福寺第十一代住職明式の案内があったからだといわれています。

明式は芭蕉の弟子となり、貞享2年(1685)「千那」(せんな)の俳号を与えられました。以来、芭蕉はしばしば堅田を訪れて、堅田の人々と親交を深めるとともに多くの句を残しています。 続きを読む →

雪のち晴れ、琵琶湖畔の町の静かな風景(本堅田を撮る3)

神田神社前の地蔵堂で、外を見ていた猫

神田神社前の地蔵堂で、猫がひなたぼっこをしていました。
ここは滋賀県大津市本堅田。大津市北部に位置する、琵琶湖畔の町です。

神田神社本殿と飛行機雲

先週の水曜日、雪がやんで晴れた日に、本堅田(ほんかたた)を撮影してきました。
神田神社本殿の上には、飛行機雲。日差しがどこか春めいています。


本福寺の大きな屋根と雪化粧

本福寺さんの大きな屋根には、雪が残っていました。


湖族の郷資料館前

湖族の郷資料館前にて。浮御堂前バス停を降りると、目に飛び込んでくる風景です。


浮御堂の門と残雪

大雪の日には閉じていた、浮御堂の門。この日は開いていたので、一安心。


伊豆神社近くの常夜灯

伊豆神社近くの常夜灯。実は、↑この左後ろに、まだ2本あります。↓

伊豆神社近くの常夜灯

こちらが残り2本の常夜灯です。
背後に見える伊豆神社の掘割には、雪が残っています。


祥瑞寺の門と青空と雪

若き日の一休さんが修行した祥瑞寺です。「一休和尚修養地」の碑が左にあります。
門をくぐってみますね。


雪の日の祥瑞寺開山堂

祥瑞寺開山堂
祥瑞寺を開いた華叟和尚と、その弟子・一休の木造が安置されています。

↓春には開山堂の前でサンシュユ(山茱萸 Cornus officinalis)の花が咲きますよ!

堅田、桜と花と緑(17)・この時期しか撮れない風景 ~Honkatata/本堅田190


雪の日の祥瑞寺本堂

祥瑞寺本堂
開山堂と本堂の見学は予約が必要ですが、境内は自由に入ることができます。


雪の日の祥瑞寺境内の石仏

祥瑞寺境内の石仏。
祥瑞寺は緑がいっぱいで、お庭も見事で、私の好きな場所のひとつです。


祥瑞寺の門と雪

雪の祥瑞寺を後にします。


雪の港橋と奥野椰子夫顕彰碑

堅田港近くの港橋(滋賀県大津市本堅田2丁目)。
奥野椰子夫顕彰碑(「琵琶湖哀歌」歌碑)があります。

奥野椰子夫(おくの やしお):滋賀県大津市本堅田出身。作詞家。
昭和22年に二葉あき子の歌で大ヒットした「夜のプラットホーム」のほか、「琵琶湖哀歌」の作詞を手がけた。


堅田港に続く水路と雪の積もった舟

堅田港に続く水路。漁師さんの漁船が停泊しています。
手前の建物は民家で、奥は水上警察(大津北警察署 堅田水上派出所)です。


堅田水上派出所と浮御堂

こちらが、大津北警察署 堅田水上派出所です。
そして一番奥に小さく見えているのが、浮御堂です!


琵琶湖のヨシ群落保全区域

堅田港付近は、琵琶湖のヨシ群落保全区域になっています。冬は水鳥の天国です。


雪景色の堅田内湖

雪景色の堅田内湖(かたたないこ)。
内湖とは琵琶湖と水路でつながっている淡水域のことで、滋賀県近江八幡市の西の湖(にしのこ)や、高島市の乙女が池が知られています。

この日は堅田内湖沿いに今堅田まで歩き、琵琶湖大橋を渡ってみることにしました。
今堅田⇒琵琶湖大橋⇒守山の菜の花畑(なぎさ公園)の予定で掲載します。
何とか1月中になぎさ公園までご紹介できればと思っております。次回に続きます。

 

◇撮影日:2017年1月18日(水)
◇撮影地:滋賀県大津市本堅田1丁目・2丁目
Lake Biwa and Honkatata town(Otsu,Shiga,Japan).

Copyright(c)Jun Kanematsu/junphotoworks.com(兼松純写真事務所)

 

↓1月15日(大雪の日)に撮影した浮御堂周辺です。

琵琶湖畔と堅田:雪の日の浮御堂周辺(前編)

琵琶湖畔の本堅田にて、年末の風景3(おとせの浜~伊豆神社の幸福の石~本福寺)

琵琶湖と、おとせの浜

当ブログは12月27日に開設9周年となりました!
12月25日に本堅田を歩いて撮影した様子を、4回にわたってお届けします。

今回はその3回目。
琵琶湖畔の風景と、その周辺の「石」にまつわる名所をご紹介します。

写真は、琵琶湖畔の「おとせの浜」です。防波堤の向こうは入り江、背後は比叡山。
右手前に、岩のように見えるのは、刈られた葦(ヨシ)の跡です。
その奥や写真中央には、水中から生える葦が見えています。

↓春は一面桜が咲いて、本当にきれいです。

滋賀堅田の桜、一挙大公開!(後編・おとせの浜から真野川まで)


石の背後から見える琵琶湖

こちらが「おとせの浜」の由来となった、「おとせ」さんです。(正確には「おとせの石」。)
おとせ石の背後から、琵琶湖を見ています。


おとせ石の伝承

おとせの石の伝承です。
読みにくい場合はこちらをご覧下さい。文字にしてあります。


おとせの浜から見える琵琶湖と三上山

おとせの浜からは、こんな風に琵琶湖と三上山が見えます。私の一番好きな場所です。

この近くの児童公園(ラクダの形の遊具がある公園)は、江戸時代の頃まで「舟入」(小さな港)だったそうです。その舟入に向かって建てられたのが、伊豆神社です。


正月飾りと伊豆神社

伊豆神社。堅田大宮と呼ばれる、堅田を代表する神社です。25日に行ったときは門松と注連飾りがつけられ、すでに新年の雰囲気がありました。


伊豆神社の稲荷

伊豆神社境内にある、正一位年丸大明神。お稲荷さんです。
堅田に行くと、よくお参りしています。


伊豆神社の幸福の石

こちらは伊豆神社の霊石「幸福の石」。

案内板によれば、この石を擦ると幸せになる、恋しい人逢いたい人にその思いが叶うと言い伝えられているそうです。

以前は境内の森の奥に飾られていたそうですが、2012年秋頃から拝殿の脇に置かれるようになりました。

写真ブログKatata/堅田|伊豆神社の「幸福の石」 ~Honkatata 496-497 #shiga #japan #photo


本福寺保育園

所変わって、堅田の皆さんにはおなじみの、本福寺保育園。こちらの卒業生の方も多いですね。本福寺の前から撮影しました。

本福寺は由緒ある寺です。歴代の和尚様は、室町時代には京都を追われた蓮如上人を保護し(三代住職・法住)、江戸時代には松尾芭蕉の弟子となる(十一代住職・明式(俳号千那))など、歴史に登場する文化人でした。

京都の町は応仁の乱で焼けてしまったので、室町時代の暮らしぶりが書かれた書物は、この本福寺にだけ残っていたりもします。(五~七代の歴代住職が書いた日記で、「本福寺跡書(ほんぷくじあとがき)」と言います。)


本福寺にある千那の句碑

本福寺の十一代住職・明式は、松尾芭蕉の弟子として知られます。

前回、「堅田に芭蕉の句碑が5箇所もある」と書いた答えは、本福寺にありました。

そもそも芭蕉が大津に来たきっかけとなったのは、明式の案内があったからだといわれています。明式は芭蕉の弟子となり、貞享2年(1685)「千那」(せんな)の俳号を与えられました。

以来、芭蕉はしばしば堅田を訪れて、堅田の人々と親交を深めるとともに多くの句を残しています。

資料によれば、芭蕉は40代以降、たびたび大津に滞在し、大津で89句の句を詠んでいます。89句というのは、芭蕉の全発句の約1割にあたる数です。

堅田にある芭蕉の句碑は、こちらでまとめて紹介しています↓

居初氏庭園と堅田教会、堅田の句碑・文学碑・顕彰碑、芭蕉の句碑


本福寺本殿

本福寺の門の彫刻

本福寺の除夜の鐘と修正会のチラシ

本福寺では、大晦日の午後11時半頃から「除夜の鐘」の予定。
1月1日午前0時15分からは「修正会」(しゅうしょうえ)だそうです。

「甘酒あります」とのことです。
お近くの方はぜひどうぞ!

以上、勝手に堅田応援!観光案内をお届けしました(^^)


撮影地:滋賀県大津市本堅田1丁目
Lake Biwa and Honkatata(Honkatata,Otsu,Shiga,Japan).

Copyright(c)Jun Kanematsu/junphotoworks.com(兼松純写真事務所)

 

蓮如を匿ったことで焼き討ちに遭った堅田の町 (滋賀県大津市) 【後編】 ~Honkatata/本堅田 358

本福寺の蔵

京都を追われた蓮如が本拠地としたのが、本堅田の本福寺。その境内にある蔵の前で撮影しました。
以下、前回の「堅田と蓮如の話」の続きです。


蓮如を匿う堅田の町を、比叡山延暦寺が焼き討ちする事態に発展します。
これが、1468年の「堅田大責」(かたたおおぜめ)と呼ばれる歴史上の事件です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/堅田に詳しく出ていたので、以下、引用させていただきました。

だが、領主である延暦寺が「仏敵」とした蓮如を堅田が匿っているという事実は延暦寺を刺激した。

更に延暦寺はかねてから殿原衆(注:堅田の地侍)が勝手に上乗(注:琵琶湖の通行税)を請求していることに対しても不満を抱いていた。

そんな最中の応仁2年(1468年)、室町幕府御蔵奉行が花の御所再建のために調達した木材を運搬する船団が上乗を払わないことを理由に堅田衆によって積荷を差し押さえたのである。

激怒した室町幕府8代将軍足利義政は領主である延暦寺に堅田の処分を要求した。
同年3月24日(ユリウス暦4月16日)、延暦寺は堅田に対して焼き討ちを行った。

これによって延暦寺を支持していた地域を含めて堅田の町のほぼ全域が焼失して住民は沖島に逃れたという。これを堅田大責(かたたおおぜめ)と言う。


沖島に逃れた人達はわずか2年後、延暦寺に多額の礼金を上納して再び堅田へ帰ってきたといいます。祭りのお神輿を持って逃れたという逸話のあるくらい、経済的にも精神的にも豊かな人達だったのです。殿原衆(地侍)の権威は失墜し、全人衆(商工業者・周辺農民)が堅田の実権を握ることになりました。

一方蓮如は、堅田大責の後、比叡山に近い堅田の地をあきらめ、北陸へと向かうことになります。浄土真宗(一向宗)は、近畿・北陸・東海地方で急速に強い影響力を持っていきました。

堅田大責からちょうど20年後の1488年。有名な「加賀の一向一揆」が起こり、加賀の守護が倒されます。加賀ではその後一世紀にわたって民衆の自治が続いていくことになったのでした。

堅田大責は、歴史の大きなうねりの中での転換点のひとつだったように感じます。
時代に翻弄されつつも強い力を発揮した個人。団結の力のすごさ。そんなことを感じた堅田のお話でした。


堅田(滋賀県大津市)の写真 本堅田 本福寺8 「本福寺の蔵」
Photograph of Honatata,Otsu,Shiga,Japan  Honkatata Honpuku-ji temple 8
2010.01.09 11:25:26 ”Kura (storehouse) of Honpuku-ji temple”

■撮影地:本福寺(真宗大谷派)■拝観:境内自由
■住所:滋賀県大津市本堅田1丁目22-30■TEL: 077-572-0044
■地図はこちら(Google mapへのリンク)

蓮如を匿ったことで焼き討ちに遭った堅田の町 (滋賀県大津市) 【前編】 ~Honkatata/本堅田 357

本福寺の梅の木と本堂

写真は、本堅田の本福寺の本堂と、本堂の前にある梅の木です。
梅の花が咲くのはもう少し後のようですが、静かな境内にはどこか春の気配が漂っていました。


2/23の当ブログ(今堅田の泉福寺)で、京都の本願寺を追われた蓮如が数年間堅田に滞在した話を書きました。そのとき蓮如の本拠地になったのが、この本福寺です。それゆえ、本福寺は本願寺旧跡とも呼ばれます。

本福寺の三代目住職・法住のもとに結集して蓮如を守ったのは、商工農業を生業とする人々でした。堅田の「全人衆(まろうどしゅう)」と呼ばれた人達です。蓮如は後に「堅田門徒」と称せられるほどの勢力をこの地に築くことになります。

しかし蓮如を匿ったことで、堅田の町は焼き討ちに遭うことになるのです。それも、比叡山延暦寺によって。背後には室町幕府の命令までありました。(この続きは次回に。)


堅田(滋賀県大津市)の写真 本堅田 本福寺7 「本福寺の梅の木と本堂」
Photograph of Honatata,Otsu,Shiga,Japan  Honkatata Honpuku-ji temple 7
2010.01.09 11:25:10″ Plum tree and main hall of Honpuku-ji temple”

■撮影地:本福寺(真宗大谷派)■拝観:境内自由
■住所:滋賀県大津市本堅田1丁目22-30■TEL: 077-572-0044

本福寺の松(滋賀県大津市) ~Honkatata/本堅田 356

本福寺の松

どーんと受け止めてくれるかのように、松の木が境内いっぱいに枝を伸ばしていました。
正面がお寺の本堂で、右手の奥には・・・なんと保育園があります(本福寺保育園)。

本福寺は由緒ある寺で、歴代の和尚様は、室町時代には京都を追われた蓮如上人を保護し(三代住職・法住)、江戸時代には松尾芭蕉の弟子となる(十一代住職・千那)など、歴史に登場する文化人なのです。

京都の町は応仁の乱で焼けてしまったので、室町時代の暮らしぶりが書かれた書物は、この本福寺にだけ残っていたりもします。(五~七代の歴代住職が書いた日記で、「本福寺跡書(ほんぷくじあとがき)」と言います。)
こんな深い歴史のある堅田は、やっぱりすごい町だと思いました。

※芭蕉が本福寺で詠んだ句などについては、こちらの「本福寺」の部分を御参照ください。temples and shrines at Honkatata/本堅田の寺社


堅田(滋賀県大津市)の写真 本堅田 本福寺6 「本福寺の松」
Photograph of Honatata,Otsu,Shiga,Japan  Honkatata Honpuku-ji temple 6
2010.01.09 11:26:20″ The pine tree at Honpuku-ji temple”

■撮影地:本福寺(真宗大谷派)■拝観:境内自由
■住所:滋賀県大津市本堅田1丁目22-30■TEL: 077-572-0044

堅田、3月 (4) ~Honkatata/本堅田 171

本福寺・蓮如忌の旗

京都を追われた蓮如は、ここ堅田の本福寺に身を寄せて再興の時を待った。
今でも堅田と蓮如の結びつきは強く、蓮如の亡くなった旧暦3月25日(蓮如忌)には、法要が営まれている。

Rennyo (蓮如,1415-1499) was the 8th head-priest of the Jōdo Shinshū sect of Buddhism.Enryaku-ji temple considered that Rennyo and  his temple Hongan-ji ( in Kyoto) the enemies of the Buddha,and  Enryaku-ji  temple oppressed them. Hongan-ji  temple was destroyed and he led the life as a fugitive.He stayed at this Honpuku-ji temple in Katata and waited for the time of revival in 1467.The relation between Katata and Rennyo is strong even now.The buddhist service is carried on on lunar calendar March 25th when Rennyo passed away.


堅田の写真(滋賀県大津市本堅田) 本堅田 本福寺5 「本福寺・蓮如忌」 2008.03.02 12:19
photograph of Katata,Otsu,Shiga,Japan  Honkatata Honpuku-ji temple
“Mourning of Rennyo at Honpuku-ji temple”  2008.03.02 12:19