明智光秀と今堅田城(滋賀県大津市今堅田)

泉福寺

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」がいよいよ始まりますね。

先日、朝日旅行さんから頂いたパンフレットを見ていたら、興味深い記述がありました。なんとご当地今堅田が出てきましたので、ご紹介します!

2020年1月18日現在、朝日旅行のWEBにも全文掲載されています(「特集 明智光秀ー歴史学者・小和田泰経氏と辿る稀代の名将の足跡と生涯」より引用)。

光秀は、後の比叡山焼き討ち(1571年)でも武功を挙げ、信長より近江国の滋賀郡を与えられた(義昭と袂を分かち、信長の直臣となったのもこの頃とされる)。

滋賀郡を得た光秀は坂本城を築城し、本願寺勢が籠もっていた今堅田城を攻略するなど、以降も武功を重ね、出世街道を歩むことになる。

https://www.asahiryoko.com/enjoy/voice/akechimitsuhide/

実は、現在の泉福寺から出島灯台の辺りが今堅田城の城域だったと言われています。

泉福寺から出島灯台は歩いて2,3分程の距離です。前回記事で今堅田の写真を掲載しましたが、泉福寺前の道路に面した水路の先に、出島灯台(奥は琵琶湖)が見えています。

造船所と水路
造船所と水路(今堅田1丁目)/A shipyard and waterway to Lake Biwa (Imakatata).
造船所の鉄柱と出島灯台
造船所の鉄柱と出島灯台(今堅田1丁目)/Shipyard iron pole and Dekejima lighthouse(Imakatata).

今堅田城は、大津市の北部に位置する今堅田の湖岸沿いにあった。湖に少し突き出ているような形をとり、しかも三方を湖水に囲まれた要害の地であるが、城の遺構は明確ではない。現在出来島(でけじま)として存在している。(『日本城郭体系 11』より)

まさに「三方を湖水に囲まれた要害の地」を彷彿させるような、現在の出島(でけじま)灯台の周辺の地形ですね。

 

蓮如を匿ったことで焼き討ちに遭った堅田の町

冒頭の引用の中で「本願寺勢が籠もっていた今堅田城」とありましたが、京都を追われた蓮如が本拠地としたのが、今堅田の隣町である本堅田の本福寺でした。

蓮如を匿う堅田の町を、比叡山延暦寺が焼き討ちする事態に発展します。これが1468年の「堅田大責」(かたたおおぜめ)と呼ばれる歴史上の事件です。

蓮如を匿ったことで焼き討ちに遭った堅田の町 (滋賀県大津市) 【後編】 ~Honkatata/本堅田 358

そして、今堅田の泉福寺もまた、蓮如に対する信仰の厚い寺です。泉福寺の由来については次項(今堅田城について)に譲りますが、『太平記』によればご住職は「清和源氏の新田氏の一族」とありました。

蓮如上人と、毛糸の帽子2017(滋賀県大津市今堅田・泉福寺)~堅田の冬の風景5

今堅田城とは

レファレンス協同データベース「近江にあった今堅田(いまかたた)城の所在地などのほか、その歴史を知りたい。」に詳細がありましたので、引用します。

『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「大津市今堅田町」、創建者は「堀口掃部介貞祐」、形式は「水城」です。

城の歴史は「今堅田城は、大津市の北部に位置する今堅田の湖岸沿いにあった。湖に少し突き出ているような形をとり、しかも三方を湖水に囲まれた要害の地であるが、城の遺構は明確ではない。現在出来島(でけじま)として存在している。

ここに城を築いたといわれる堀口掃部介貞祐は、清和源氏の新田氏の一族で、父の貞満は新田義貞にしたがって武勇をたてた人物である。

『太平記』によれば、貞祐は堅田に居住し、足利義詮の北国落ちの時、後陣にいた京極導誉の長子秀綱を討ち取ったという。その堀口氏はそののち今堅田に住み泉福寺歴代の住持職をつとめている

その後、浅井・朝倉軍が織田信長に相対するために、今堅田城に甲賀武士団の磯谷新右衛門を主将として守備させたが、明智光秀・丹羽長秀らに湖から攻撃をうけ落城した。

このときの戦況をポルトガル宣教師ルイス・フロイスは、「坂本より二レグワ(二里)の堅田(今堅田)の城を攻めたり、同城は一向一宗徒に属し・・・・・・」と述べている。」とあります。

なお、大津市今堅田町は現在大津市今堅田になっています。

新田義貞と今堅田

泉福寺の住職が新田氏ゆかりの人物だというくだりで新田義貞の話が出てきましたので、追記させてください。今堅田の野神神社には、新田義貞の妻・匂当内侍(こうとうないし)の墓があります。

時は南北朝時代、足利尊氏の上洛によって義貞は越前に向かい、匂当内侍を今堅田に残していきます。3年後の延元三年(1338)7月2日、義貞は越前国藤島で戦死します。 義貞の死を知った匂当内侍は当地今堅田の琵琶湖畔で身を投げたと伝えられています。

Imakatata/今堅田 054-055

今堅田の地図
今堅田の地図(伊豆神田神社前・今堅田1丁目)/ Imakatata map.

明智光秀と今堅田城について:槇島城の戦い(まきしまじょうのたたかい)

明智光秀が今堅田城を攻めて勝利した戦い(今堅田・石山の戦い)は、「槇島城の戦い」の中の一つです。室町幕府の滅亡につながる戦いでした。この戦いで今堅田城は落城し、多くの死者と負傷者を出しました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/槇島城の戦い

槇島城の戦い(まきしまじょうのたたかい)は、元亀4年(1573年)2月から7月にかけて行なわれた織田信長と室町幕府第15代将軍足利義昭の戦い。義昭が敗れて京都から追放され、室町幕府は実質的に滅亡した。

今堅田・石山の戦い

戦争:戦国時代 (日本)
年月日:元亀4年(1573年)2月
場所:今堅田城(大津市堅田町)および石山城(大津市石山町)
結果:織田軍の勝利

2月20日、信長は柴田勝家(長光寺)・明智光秀(坂本)・丹羽長秀(佐和山)・蜂屋頼隆(安土)ら四将を派遣24日に勢田から琵琶湖を渡り、石山砦に攻撃をかけた。守備隊には山岡光浄院が率いる、伊賀衆・甲賀衆が在番していたが、砦がまだ完全に出来上がっておらず、26日に降伏して退却、四将は砦を取り壊した。

続いて29日に四将は今堅田砦を攻撃。午前8時ごろから明智光秀が東(琵琶湖上)から船で、丹羽・蜂屋は南東からそれぞれ攻めかかり、正午ごろに明智隊が突入し、勝利した。光秀はそのまま坂本城に入り、他の三将は帰還した。この戦いで砦側は死者500人、負傷者1,000余人を出したとされる。

 

今堅田と本堅田を歩き撮影して14年になりますが、こうして深い歴史に触れるのは胸躍るひとときです。又何かありましたら、当ブログの「堅田の歴史・よもやま話」の中で書きますね!

 

◇撮影日:2020年1月11日(土)
◇撮影地:泉福寺~出島灯台周辺(滋賀県大津市今堅田一丁目)
◇photograph of Senpuku-ji temple at January,2020(Imakatata,Otsu city,Shiga prefecture,Japan).

Copyright(c) Jun Kanematsu / junphotoworks.com(兼松純写真事務所)

 





3件のコメント

    1. メッセージありがとうございます!

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