竹生島をめぐる冒険(1) 2つの都久生須麻神社―弁才天と龍神信仰 

都久生須麻神社(滋賀県大津市本堅田)

琵琶湖に浮かぶ竹生島。古くから弁才天と龍神を祀って来た信仰の島で、宝厳寺と都久生須麻神社がある。しかし、同名の神社が滋賀県大津市本堅田にあることは、ほとんど知られていない。

本堅田の都久生須麻神社(つくぶすま じんじゃ)境内には、「喜動大弁財天」「竹生島龍神」と刻まれた石(ご神体)がある。そして本殿の祭神は、竹生島同様「弁財天」だという。そんな話を以前書いたことがある。

■JR湖西線・堅田駅⇔浮御堂周辺散歩■56 ~Honkatata/本堅田 068-069
都久生須麻神社は、琵琶湖畔の十六夜公園の一角にある。祥瑞寺の前から琵琶湖の方向へまっすぐ歩いてゆくと、都久生須麻神社の参道がある。(2015年7月追記) 同名の神社が琵琶湖の竹生島にあるのは、あまりに有名な話。あまり知られていないが、中世の堅田は琵琶湖全域の漁業権をもち、琵琶湖最大の自治都市を築いたと...

あれから8年経ち、文化財の撮影で各地をめぐった。まるでジグソーパズルのピースを集めるように、竹生島にまつわる意外な話と出合ってきた。というのも、琵琶湖上の島であるがゆえに、歴史のタイムカプセルのように秘められた話が出てくるのだ。

今回は、当時掲載していなかった、本堅田の都久生須麻神社のご神体写真(下記)を紹介するとともに、竹生島をめぐる深い話を書いてみたい。

都久生須麻神社の神体石

 

弁才天と龍神を祀る島

竹生島は弁財天と龍神を祀る島で、竹生島の宝厳寺は日本三大弁才天のひとつだ。そして竹生島の都久生須麻神社(別名・竹生島神社)は、明治時代に神仏分離令が出るまで宝厳寺と不可分一体の存在として信仰を守ってきた。

ちなみに両者は舟廊下で結ばれているため、現在訪ねても、どこからが都久生須麻神社でどこまでが宝厳寺なのか、よく分からない。文化的・信仰的な事を考えても、無理に分離する必要はなかったと思う次第。

 

弁才天と龍神は、水の神様

弁才天といえば、音楽・学芸・福徳の神様。近世になると、七福神のなかで紅一点の神様として、財宝神として信仰されるようになる。ただし七福神だと弁財天と書くことが多いようだ。

弁才天は元々ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー(Sarasvatī)で、インドの河神だという。仏教の成立過程で仏教の守護神(天部)として信仰されるようになり、さらに日本では水神と神仏習合して弁才天が数多く祀られるようになった。
(参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/弁才天

他方、龍神は龍宮に住むと伝えられる龍で、やはり水神として祀られている。

3枚目・4枚目↓の写真は竹生島の都久生須麻神社の鳥居で、琵琶湖に向かって建つ姿。ここでは竜神信仰に基づくかわらけ投げが行われている。

琵琶湖に向かって建つ都久生須麻神社鳥居(竹生島・滋賀県長浜市)

琵琶湖と都久生須麻神社(竹生島・滋賀県長浜市)

 

都久夫須麻神社の祭神とは・・・

都久夫須麻神社の祭神はもともと浅井姫命(あざいひめのみこと)で、これが弁才天と一緒になったのが、竹生島の弁才天信仰の始まりのようだ。

延喜式神名帳には、近江国浅井郡の社として都久夫須麻神社の名があり、祭神は浅井姫命(あざいひめのみこと)とされていた。浅井姫命は、浅井氏の氏神ともいわれ、湖水を支配する神ともいわれるが、平安時代末期頃から、この神は仏教の弁才天(元来はインド起源の河神)と同一視されるようになったようである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/宝厳寺

白洲正子さんの著作『近江山河抄』の中には、竹生島に関して驚くべき記述がある。

祀られているのも、ツクブスマという女神で、あきらかに北国の訛りがある。が、はじめは浅井比咩を祭ったといい、その方が古いように思われる。・・・そして、仏教が入った後、観世音から弁才天へと結びついて行った。・・・浅井比咩がツクブスマとなり、観世音と混淆して弁財天に変身したのが、竹生島の歴史であり、私たちの祖先が経て来た信仰のパターンである。白洲正子『近江山河抄』

つまり、浅井姫命⇒ツクブスマ⇒弁才天と姿を変えながら、琵琶湖の守り神として竹生島に女神が祀られてきたということだろう。浅井郡の地名は、平成の市町村合併で残っていない。しかし、ツクブスマの名は都久生須麻神社として残ったことになる。


 

本堅田の都久生須麻神社

由来に関して手がかりの少ない、本堅田の都久生須麻神社。

しかし、竹生島の都久生須麻神社の名が延喜式神名帳(延長5年(927年)=平安時代の書物)にあるということは、平安時代以降に本堅田の水神として成立したのは確かだろう。

中世の堅田は、大阪の堺のような自治都市を築いたと言われている。その中心は琵琶湖の漁業権と水運だった。漁業権を後押ししたのは、平安時代に堅田に御厨を置いた下鴨神社とも、堅田に湖上関を認めた比叡山延暦寺だとも言われるが、竹生島とのつながりもあったことは十分想像できる。

というのも、竹生島の北側、琵琶湖の北端(賤ヶ岳近くの湖畔)には有漏神社があって、古くは堅田の漁師の信仰を集めたとの記録がある。その近くの阿曽津千軒には、堅田の漁師が阿曽津婆を助けた伝承があって、堅田の漁師だけが阿曽津の竹を守り神として使ったと言う興味深い内容となっている。湖北で何かの特権が堅田の漁師に与えられていたという風に解釈できないだろうか。

陸運の発達した現代では、水辺の神社の痕跡やつながりは、とても見えにくい。本堅田の都久生須麻神社は、竹生島の弁才天と龍神信仰の影響を受けて成立し、そこには琵琶湖の漁業権と水運をめぐる、現代では想像できないような大きな文化圏・経済圏があったに違いない。

琵琶湖畔の秘境、有漏神社と阿曽津千軒。堅田との意外な関係と登山道について
琵琶湖の北端に、有漏神社(うろう じんじゃ)という神社があります。その由緒になんと・・・堅田の地名があって驚きました!中世のころ、堅田の漁業権が湖北まで及んでいたという史実を裏付けるものでした。往昔湖上舟楫(ふねかじ)の神として鎮座され、遠く江南堅田方面の漁民のこの地に出漁することも多くその舟楫守...

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