国指定史跡「衣川廃寺跡」(滋賀県大津市衣川)

衣川廃寺跡案内板

話は飛鳥時代にさかのぼります。667年3月19日、中大兄皇子(後の天智天皇)は飛鳥から近江大津に都を遷しました

同時代に大津にあった寺院が、今回ご紹介する衣川廃寺跡です。大津市歴史博物館の解説には「7世紀中頃に創建された滋賀県最古の寺院と見られている」とあります。

大津宮と同時代の寺院跡は、園城寺(三井寺)の前身寺院、そして滋賀里の崇福寺跡が知られています。PDF「古代の大津. 大津京遷都の時代背景. 大津京遷都の時代背景」(大津市)には、この2つに加えて、南滋賀町廃寺跡穴太廃寺跡の名前がありました。この中に衣川廃寺跡も入れて欲しいと思うのは、ただの贔屓目でしょうか。というのも、衣川もまた大友皇子(天智天皇の息子)とゆかりの深い土地だからです。

衣川には、大友皇子が最期を迎えた地であるという伝承が1300年以上にわたってあります。壬申の乱に敗れた大友皇子は、従者とともに衣川に落ち延びて、乗ってきた馬の「鞍」を柳の木に「掛」けると、自ら命を絶ったと伝わっています(鞍掛神社の伝承)。

もしかして、皇子が衣川を選んだのなら、それは衣川寺があったからかもしれません。7世紀と言えば仏教は日本に伝わっていて、政情不安の中、高貴な人たちは仏教を心のよりどころにしていました。最期に寺を訪ねてもおかしくありません。今回改めて思い出したのは、随筆家の白洲正子さんが大友皇子について触れた一節でした。

壬申の乱に敗れた大友皇子は、「志賀の山崎」で縊死したと伝えるが、それは大津の宮からあまり遠くないところ、崇福寺の麓のあたりではなかったであろうか。皇子は寺に辿りつこうとして、矢つき刀折れて視察したに違いない・・・。
白洲正子『近江山河抄』「大津の京」

大津宮(大津市錦織)と衣川は、隠れ家的な場所に行くような絶妙な距離です。壬申の乱以前から、皇子は大津宮から馬で衣川に来たことがあったのかもしれません。ふと、そんなことを思いました。

”衣川寺が廃寺となったのはいつごろだったのか分かりませんが、大津宮と大友皇子とともに、歴史の表舞台から消えていったのでしょうか。”そう書いてこの原稿を一旦書き終えた後見つけた「国立国会図書館レファレンス協同データベース(衣川廃寺跡の概要を知りたい。)」には、

出土瓦からみて大化改新前後に建立され、壬申の乱前後の火災によって消失したものと推定される。

とありました。やはり大津宮とともに歴史の表舞台から消えていったお寺のようです。

衣川廃寺跡

現在の衣川廃寺跡。下の写真中央に写っているお堂の方向から奥を眺めています。下の写真は発掘調査時のものです。

衣川廃寺跡の発掘調査の模様

衣川廃寺跡は1975年(昭和50)に発掘調査が実施され、塔跡と金堂跡、寺の屋根瓦を焼いた1基の登り窯が見つかりました。1977年(昭和52)に国の史跡に指定された理由は、塔跡と金堂跡だけの「きわめて特異な伽藍(がらん)配置」にありました(コトバンク「衣川廃寺跡」参照)。

登り窯案内板

登り窯

出土した瓦の写真パネル

展示施設

主な出土品は軒丸瓦や軒平瓦などの瓦で、現地の展示施設の中にパネルで解説があります。ご覧のように地層の断面も展示されています。入り口は2箇所あって、JR湖西線そばの稲荷神社(梅宮神社の裏)からも、衣川台の中からも訪ねることができます。

次回は、この衣川廃寺跡で見つけた「龍瑞寺」(堅田藩主堀田正高の祈願寺)ゆかりの石塔についてご紹介します。

衣川廃寺跡(滋賀県大津市衣川2丁目)

撮影日:2016年2月21日(日)
Kinugawa obsolete temple trail(Kinugawa,Otsu city,Shiga prefecture,Japan).
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