江戸時代の堅田と堅田藩、大庄屋と居初氏について(前編)

先日当ブログでご紹介した報告会、「江戸時代の堅田と堅田藩」(2016/1/31開催)に行ってきました。科研費の出ている研究なので、いずれ何らかの形で広く公開されると思いますが、差し支えのない範囲で当日の報告内容を一部ご紹介したいと思います。

その前に、堅田藩について当ブログよりご紹介します。堅田藩の当主は堀田家(佐倉藩堀田家の分家)です。時代劇によく出てくる?老中の堀田さんの一族なんですね。

堅田藩とは言っても、天守閣のある立派な城を作ることが許されたわけではありません。城の無い大名(無城大名)なので、役所があった場所は「陣屋」と呼ばれます。堅田藩陣屋があったのは、浮御堂に近い場所でした。

文政8年(1825)ごろの本堅田村の状態(堅田藩陣屋跡の案内板より)
堅田藩の初代藩主は堀田正高(まさたか)という人物で、その父は徳川綱吉に仕えた大老・堀田正俊(まさとし)でした。

貞享元年(1684年)8月28日、正俊は江戸城中で稲葉正休に暗殺されます三男だった正高は、父・正俊の遺領のうち下野佐野(栃木県)1万石をもらいますが、元禄11年(1698年)3月7日、所領を近江堅田(滋賀県)に移され、堅田に陣屋を設置しました。これが堅田藩の始まりです。

第6代藩主・堀田正敦(まさあつ)は、若年寄として松平定信の寛政の改革を助け、仙台藩主が死去したときは若い次期藩主の後見役となって仙台藩の藩政を担うなど、とても功績の大きかった人物です。

正敦の功績で、文化3年(1806年)に堅田藩は3,000石を加増され1万3,000石になりました。さらに文政8年(1825年)4月には、堅田藩は「陣屋」(無城大名)から「城主格」(お城はないけど城主に準ずる待遇)に一段階昇格します。

しかし、文政9年(1826年)10月10日、正敦は(初代堅田藩主・正高の旧領である)下野佐野へ所領を移されて(呼び戻されて)、堅田藩は廃藩となりました。もっとも、堅田の所領のうち滋賀郡領は、佐野藩の飛び地として幕末期まで受け継がれました。

出典(当ブログ):宮ノ切と堅田陣屋 ~Honkatata/本堅田 115(2)


堅田陣屋のあった時代(江戸時代)の掘割
堅田藩の陣屋跡は、大津市本堅田1丁目の伊豆神社近くにあります。2009年に地元の方の寄付で陣屋跡の看板が立てられました。しかし建物や門などは何も残っておらず、往時をしのぶものは陣屋があった当時の舟入り(写真)くらいでしょうか。

出典(当ブログ):本堅田(滋賀県大津市)の、静かなお正月の風景(5) 堅田藩陣屋跡から ~Honkatata/本堅田 332-334


伊豆神社の掘割
陣屋があった当時から存在すると伝わる、伊豆神社の掘割です。この写真の方向へ歩いて右折すると浮御堂、左折すると陣屋跡方面(琵琶湖)へ続いています。

出典(当ブログ):伊豆神社の掘割~古絵図で見る堅田(3)


宮ノ切の地蔵堂と石段と柿の木
堅田港の近く、本堅田1丁目(2丁目との境界付近)には、環濠のなごりが水路としてわずかに残っています。「宮ノ切」は堅田陣屋の一部だったといわれている場所です。

室町時代の堅田には「宮座」と呼ばれる自治組織が設けられ、「きり」が築かれました。堅田の宮座は、地侍である殿原衆(とのばらしゅう)によって運営されました。「宮ノ切」が最初に築かれ、さらに「東ノ切」「西ノ切」「今堅田切」へと発展し、これら4つで堅田が形成されました。

出典(当ブログ):宮ノ切と堅田陣屋 ~Honkatata/本堅田 115(2)


宮ノ切=伊豆神社エリア、東ノ切=満月寺(浮御堂)エリア、西ノ切=寿寧寺・神田神社エリア、今堅田切=伊豆神田神社エリアに相当します。(色のついた範囲をクリックすると解説と写真が出ます。)


さて、元徳11年(1698)に成立した堅田藩ですが、そのお触れや日常の業務の一部を担った「大庄屋」(おおじょうや。庄屋を束ねる存在)と呼ばれる人たちがいました。

◆大庄屋とは、庄屋とは別に置かれ、藩(郡奉行)の決裁権の一部を担った民間人です。藩と村(庄屋)をつなぐ役割を持ち、郡奉行への願書・届書などの窓口となりました。米5俵(2石)の役料をもらい、苗字・帯刀を許されたといいます。

なお、堅田藩廃藩後の佐野藩(栃木の佐野)でも大庄屋がいたそうです。興味深い話ですね。(出典:「江戸時代の堅田と堅田藩」第二回報告会レジュメと質疑応答、東谷智先生担当分)

◆堅田藩の大庄屋は、享保19年(1734)6名で成立しています。
その6名とは・・・
・近江国滋賀郡本堅田村 居初八郎右衛門・藤田源右衛門・木村伝右衛門
・近江国滋賀郡大野村 吉田伊兵衛
・近江国高島郡北仰村 橋下安兵衛
・近江国高島郡浜分村 岩佐太郎助
(出典:「江戸時代の堅田と堅田藩」第二回報告会レジュメ、東谷智先生担当分)

現在の地名を調べてみると、本堅田村は大津市本堅田。大野村は大津市真野。北仰村と浜分村は高島市今津町です。そして堅田藩の範囲は、堅田周辺の真野、衣川、千野、伊香立から、堅田以北の葛川、南小松、北比良、今津まで、かなり広いですね!

ところで、堅田をご存知の方なら、先ほどの6名の中にどこかで見た名前があるかも。そうです、本堅田の居初さんが入ってる!

茶室・天然図画亭(居初氏庭園)
さきほど「宮ノ切」の説明の中で、「堅田の宮座は、地侍である殿原衆(とのばらしゅう)によって運営されました」と書きましたが、この殿原衆の筆頭格居初(いそめ)氏です。その庭園は天然図画亭と呼ばれ、国指定の名勝になっています。

ちなみに現在の居初家は本堅田の琵琶湖畔にあり(ご当主のお話だと中世の頃は伊豆神社の近くにあったそうです)、湖畔から立派なお茶室の屋根が見えます(写真)。

中世の堅田の歴史を紐解くと、下鴨神社と延暦寺の権威を背景に、湖上関の通行税の徴収権などの湖上特権を確立していった歴史があります。下鴨神社の御厨となって約90年後の1182年、伊豆神社に宮座が置かれ、堅田は殿原衆を中心に惣の運営を始めます。大阪の堺と並ぶ、中世の自由都市の始まりでした。

出典(当ブログ):大阪の堺と並ぶ自由都市だった港町、堅田。殿原衆三家の一つ、居初氏の邸宅にて(前編) ~Honkatata/本堅田 477-484


ちなみに堅田のことを湖族(こぞく)湖族の郷(こぞくのさと)というのは、中世の居初氏から来ているといっても過言ではありません。湖族とは吉川英治氏の「新・平家物語」に出てくる言葉で、中世に琵琶湖の水運を支配した堅田衆のことを言います。

では中世以降の居初氏はどうなっていったのか。筆者にとっては個人的に気になるテーマで、以前当ブログの記事として書いたことがありました(「大津百町」の中の堅田~かつて大津旧市街に上堅田町・下堅田町と呼ばれた町がありました)。次回はその話に大庄屋の話題を絡めて書いてみたいと思います。

次回に続きます。
Copyright(c)Jun Kanematsu/junphotoworks.com(兼松純写真事務所)
無断転載・許可なき複製行為を禁じます。

 

にほんブログ村 写真ブログ 地域の歴史文化写真へ にほんブログ村

滋賀県ランキング



2件のコメント

  1. 私のご先祖様が堅田藩の出であることは判っております、祖母の話によると、普請奉行をしていたそうです。堅田が佐野に転藩になった折 殿様に随行し佐野に向かったのですが 解役となり二本松藩に渡って二本松城の改装に係わったとの事です。
    いろいろ当時のことを調べて居ります。当時のことに詳しいい方が居られましたらご紹介ください。

    1. >永井様
      興味深いお話を書いていただき、ありがとうございます。
      大津市歴史博物館に堅田を研究されている学芸員の方がおられます。
      手紙などで直接問い合わせされてみてはいかがでしょうか。

コメントは停止中です。