近江路5(滋賀県野洲市:妙光寺山磨崖仏と福林寺跡磨崖仏)~近江山河抄の舞台を歩く(77)

日本一大きい銅鐸のレプリカ
滋賀県野洲(やす)市といえば、三上山(近江富士)と銅鐸で知られる町だ。
野洲の小篠原にある大岩山からは、明治14年に14個、昭和37年に10個の銅鐸が発見されている。日本一大きい銅鐸が見つかったのも野洲の大岩山で、この写真はそのレプリカを撮影したもの。
※野洲の銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)にて、許可を得て撮影しています。

銅鐸のレプリカと弥生時代の展示
野洲へ出かけたのは、今回ご紹介する妙光寺山磨崖仏を撮影するためだった。
幸いなことに地元の方に同行していただけることになり、この4月に2度、野洲を歩いている。実際に歩いてみると、中山道や朝鮮人街道が通る歴史ある場所で、本当に古墳が多い。

新緑の妙光寺山
新緑の妙光寺山。
車で国道8号線を通る方なら、野洲中学校のあたりで、稲荷神社の前を通っているはずだ。神社の裏に見えるのが妙光寺山で、以前から通るたびに遺跡がありそうな雰囲気を感じていた。

稲荷神社の左脇の道を進むと、両磨崖仏の道案内が出ていて、福林寺跡はそこから10~15分程だ。
妙光寺山のほうは、野洲中学校の奥の集落を抜けたところに登山口があり、ちょっとした登山になる。先に妙光寺山磨崖仏を撮影することにした。

妙光寺山の岩神
妙光寺山の山中で、突然古墳に出合った。傍らの石柱には「岩神」と刻まれている。
帰宅してから地図で確認すると、確かに妙光寺山には「岩神神社」という場所がある。
白洲正子さんが見たという妙光寺山の「ドルメンのような建造物」とは岩神のことだと思われる。

先年三上山の後ろの妙光寺山という所へ、石仏を探しに行き、古墳群の中に迷い込んだことがあるが、そこにはドルメンのような建造物も建っていて、鳥居には注連縄をはりめぐらし、お供えまであげてあった。おそらく神が降臨する磐坐(いわくら)か、何かの記念碑のようなもので、麓の村には根づよい信仰が残っているらしい。野洲川に面した三上山は、安(やす)氏・三上氏など、大豪族の根拠地であったから、このようなものが造られたのだろう。-白洲正子『近江山河抄』「近江路」

妙光寺山磨崖仏
岩神から少し歩いた山中に、鎌倉時代の見事な磨崖仏(妙光寺山磨崖仏)がある。
宝珠と錫杖を持ち、線刻の蓮華座の上に立つ姿で、とても穏やかなお顔をしていた。

崖に露出する岩に長方形の切込みを作り、その中に地蔵立像を彫ったことから別名「書込地蔵」。地蔵立像自体は高さ160cm・厚さ10cmだが、足に沓(くつ)を履いているのが大変珍しいという。像の左右には、元享4年(1324)甲子7月10日造立、大願主経貞と刻銘されている(案内板より)。

地元の方のお話によれば、妙光寺山磨崖仏は東のある一点を見守るように建てられている。その一点とは、近江を治めた六角氏の居城・観音寺城(安土の繖山(きぬがさやま))だという。近江源氏と呼ばれた佐々木氏の惣領が六角氏で、経貞はどうやら佐々木氏の一族か関係者らしい。

また、登山道が整備される近年まで、妙光寺山磨崖仏は草木に覆われていたという話だった。そのため、ほとんど風雨に晒される事もなく、今日に至っているということだった。

妙光寺山登山口まで下り、今度は山沿いに車道を歩くと、希望が丘文化公園からの道と合流する。この遊歩道を道案内に沿って野洲中学校の方向へ歩いていくと、福林寺跡磨崖仏がある。

福林寺跡磨崖仏入り口付近
福林寺跡磨崖仏入り口を少し通り過ぎたところで、希望が丘の方向を撮影している。
右の道は野洲駅方面への道で、寺沿いに下っていくと途中に磨滅した石仏群を見られる。

ちなみにこの遊歩道を反対側(国道8号線方面)へ直進し、8号線との合流地点で山側へ入ると、日吉神社の前を経由して銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)まで歩いていくことができる。

野洲駅出発(9時半)→稲荷神社→妙光寺山磨崖仏→福林寺跡磨崖仏→銅鐸博物館と歩くと、ちょうど正午過ぎに銅鐸博物館到着になるので、手軽なハイキングコースになる。

福林寺跡磨崖仏入り口
ここが福林寺跡磨崖仏への入り口で、獣よけの柵を開閉して福林寺跡へ入ることができる。

福林寺は、平安時代に桓武天皇の勅願によって最澄が開いたと伝わる古刹である。戦国時代に兵火に遭い、琵琶湖岸に近い守山市木浜町で再興されて現在に至っている。福林寺跡の敷地の大半は野洲中学校の敷地となっており、この山中には石仏だけが残る。

由緒に、最澄が、延暦寺の根本中堂建立のため木材を求めて甲賀(滋賀県甲賀市)にやってきて、野洲の三上山の麓で光を見た。そのとき刻んだ十一面観音を本尊に福林寺を開いたという。

最盛期はいわゆる七堂伽藍(山門から本堂まで)を有し、かなり大きな寺だったようだ。後述する十二所神社は鎌倉時代の創建と言われるが、廃寺福林寺の境内にあったと伝わる。兵火の際に守山に運び出されて助かった木造十一面観音立像は、国の重要文化財になっている。

福林寺跡磨崖仏

福林寺跡磨崖仏二体
福林寺跡磨崖仏。盗掘の際につけられたノミの跡が痛々しい。
室町時代初期の作品で、阿弥陀如来像二体と観音立像一体が岩に刻まれている。

福林寺跡
福林寺跡。現在は野洲市の史跡になっている。
当地は長い歳月盗掘に遭っており、かなりの数の石仏が散逸したといわれている。

福林寺跡の石仏1

福林寺跡の地蔵立像1

福林寺跡の地蔵立像2
福林寺跡の地蔵立像。

福林寺跡の石仏2
砂に埋もれている石仏もある。
一体どれくらいの数があるのか、分からない位だ。

福林寺跡の石仏3

磨崖仏から少し離れた場所にある岩には、三面に石仏が彫られている。
福林寺跡の地蔵立像3-1

福林寺跡の地蔵立像3-2

福林寺跡の地蔵立像3-3

十二所神社跡
福林寺境内にあった十二所神社跡を示す石柱。
この十二所神社にあった建物が、意外なところに現存していることはあまり知られていない。

稲荷神社
国道8号線沿い、野洲中学校の近くにある稲荷神社境内に、その建物はひっそりと建つ。

 古宮神社本殿
稲荷神社拝殿の奥、左側にあるのが「稲荷神社境内社 古宮神社本殿」。
室町時代の建築と考えられており、昭和25年に重要文化財になっている。

稲荷神社由緒によれば、福林寺の守護神(小篠原地区の氏神)が稲荷神社だとある。
そして福林寺は、天智天皇亡き後、壬申の乱の際に野洲川原で戦死した人々の供養と鎮護国家のために創建された寺だったという。永禄年間(1558年~1570年)の争乱で福林寺の伽藍は衰退し、稲荷神社と真福院のみが残った。

廃寺福林寺本堂の一座にあった十二所神社(古宮神社)は、大正3年5月に稲荷神社に合祀された。そのとき古宮神社本殿も稲荷神社へ移築されたが、覆屋の中で荒廃していた状態だったようだ。昭和17年の解体修理によって復元整備され、現在の姿になっている。

福林寺の守護神として崇められてきた稲荷神社が、福林寺跡の十二所神社を守ったかのようだ。

こうやって歴史の断片をつなぎあわせていくと、いつもの風景が違ったものに見えてくるから興味深い。

Copyright(C)2007-2015 Jun Kanematsu/兼松純写真事務所. All rights reserved.

※福林寺跡・妙光寺山とも9月下旬から11月上旬までは松茸狩り期間で入山できません。ご注意下さい。

※守山の福林寺の拝観には、個人・団体ともに事前予約が必要です。
なお、個人での参拝は秋の特別拝観期間のみ可能だということです(団体は別途可能)。
詳細は守山市ホームページをご覧下さい。⇒福林寺