「大津百町」の中の堅田~かつて大津旧市街に上堅田町・下堅田町と呼ばれた町がありました

堅田や近江(滋賀)をきちんと撮影したいと思い、
昨年の秋から、歴史博物館に通って勉強しています。

一旦調べだすと面白くて、脱線ばかりしていますが^^
思いがけない形で堅田に出会いました。

今回取り上げるのは、勉強していく中で知った
「大津の旧市街(大津百町)に堅田町と呼ばれた町があった」
という歴史のお話です。

「大津の中に堅田がある」と書くと、
「大津市北部に堅田という町がある」という意味に
理解するのが通常です。
(社会生活上はこちらの理解で十二分です^^)

ところが、今回ご紹介する堅田町は、
天正年間(1573-92・ほぼ安土桃山時代)に
堅田の船頭を大津に移住させたことで生まれたという、
歴史上の町なのです。

場所は、現在の大津市中央3丁目・大津市島ノ関。
ちょうど中央小学校周辺から島ノ関駅の辺りに、
上堅田町(かみかたたまち)・下堅田町(しもかたたまち)という
2つの町がありました。

古文書を見ると、上堅田町と下堅田町は
「堅田町」と総称されて登場していることがあります。


お手数ですが、地図の「+」マークをクリックして拡大の上、堅田町エリアをご覧下さい。

現在の大津市の地域は、
「大津町(いわゆる大津百町)」
「旧志賀町」「堅田」
「膳所」「瀬田」「石山」

というブロックに分けて考えたほうが、
理解しやすいかもしれません。

歴史的・地域的に独自のものがあって、
合併を繰り返して「大津市」になっているからです。

献撰供御人行列
いわゆる堅田(通常の意味の堅田)は、
1090年に京都の下鴨神社の御厨(みくりや)となり、
以後は琵琶湖の水運や漁業権に関する特権を得て、
室町時代に琵琶湖最大の自治都市を築きました。

この話は、堅田から下鴨神社に鮒を奉納する供御人行列の中で、
何度もご紹介しています。

では、その後の歴史はどうなっていったのか。
調べていく中で出会ったのが、歴史上の堅田町でした。

1586年(天正14年)、豊臣秀吉は坂本城(明智光秀の居城)を廃城とし、
現在の大津港(浜大津)の辺りに大津城を築城します。

その際に、「大津百艘船」と呼ばれる船株仲間制度を作り、
坂本や堅田などの船持に湖上水運の特権を与えました。

堅田の船頭を大津の湖岸(いわゆる堅田町)に移住させ、
坂本城下の人々をやはり大津の湖岸(いわゆる坂本町)に
移住させています。

ちなみに大津の「堅田町」「坂本町」「船頭町」は、
船頭が多く居住する町として、古文書にも登場しています。

彦根城と桜
その後、関ヶ原の合戦で大津城は廃城となり、城は膳所に移りました。
大津城の天主は、写真の彦根城に移されたといわれています。

江戸時代になると、大津は江戸幕府の直轄(天領)となります。
大津城の跡には御蔵(幕府の蔵)と大津代官所が置かれました。

そして、「大津百町」(おおつひゃくちょう)と呼ばれる百個の町から成る
商業都市へと大津は移り変わっていきます。

この「大津百町(おおつひゃくちょう)」のうちの二つが、上堅田町と下堅田町です。

江戸時代の大津は、東海道の宿場町、三井寺の門前町、
そして琵琶湖の港町として賑わったと伝えられています。

茶室・天然図画亭(居初氏庭園)
<補足>大津百艘船制度によって、いわゆる堅田の勢力は完全に失われたのでしょうか?

本堅田の居初家(いそめけ)は、江戸時代に至るまで、
堅田の湖上水運を保持し続けた一族です。(写真)

居初家に伝わる豊臣秀吉の朱印状(天正19年11月3日)には、
朝妻(米原市)・船木からの材木や薪などの輸送は大津百艘船で、
蔵米はその他の浦舟で輸送するように命じています。

その他の資料とつき合わせると、琵琶湖の公式な水運ルートとして、
大津百艘船ルートの他に、堅田ルートが認められていたことが分かります。

江戸時代(明和3年・1766年)の「船仲間諸用留帳」からは、
堅田の居初家・簗瀬家・竹内家、今堅田の竹内家の四家で
船頭仲間を結成していたことや、
堅田浦が幕府と各浦の仲介役を果たしていたことが伺えます。

また、寛政5年(1793年)の「百艘出入公事留帳」には、
かつて堅田の船頭仲間四家が持っていた船株を大津百艘船に返したが、
寛政5年になって再び返して欲しいと争いになったことが記されています。

時代の変化に対応しながら、多少の変化はありつつも、
堅田の勢力は失われていなかったことが推察できます。

それを象徴するのが、「諸浦の親郷(しょうらのおやごう)」という言葉です。
元和元年(1615年)7月の「諸浦惣代堅田村訴状」に初めて登場しますが、
以前から自他共に認められていた言葉だったようです。

「江州諸浦廻舩之儀、かた田ハ諸浦のおや郷にて御座候」
”近江国の廻船において堅田が親郷である”という自負こそが、
時代の変化を乗り切る行動指針として、いい形で働いたのかもしれません。

大津百町の堅田は、大津の交通の中心地・島の関として残りました。
本家の堅田は、現在も続く造船の町です。
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フォークリフト、三上山(近江富士)、琵琶湖に桟橋、船体にMOKUBEと書かれた船
写真は今堅田の杢兵衛造船所にて。(バックナンバーより)

 

<参考>
第2期大津市中心市街地活性化基本計画(大津市/PDF)
↑5ページ目に「大津百町の旧町名一覧」があります。

大津城跡発掘調査報告書(大津市教育委員会・平成11年)
居初家文書の世界(大津市歴史博物館ミニ企画展・2013年9月開催)展示解説

<大津百町の地図について>
「大津百町おもしろ発見地図」が、以下の3か所で、200円で販売されています。
大津百町館
大津祭曳山展示館
大津駅観光案内所

残念ながら、概略としてご紹介できる地図(画像)がなかったので、
今回参考にした文献をもとに、グーグルマップで作成してみました。
https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zVZONNDiY484.kF6xdQFSjrYQ
※多少の誤差、および大谷町以西が作成途中になっている点はご容赦下さい。
ご参考になれば幸いです。