紫香楽の宮7(紫香楽宮跡/宮町遺跡と内裏野地区)~近江山河抄の舞台を歩く(47)

甲賀市信楽町宮町
信楽町宮町。ここには、かつて紫香楽宮(しがらきのみや)の「宮殿跡」があった。
奈良時代、聖武天皇は平城京以外に三つの都を造った。難波京、恭仁京、紫香楽宮である。聖武天皇は信楽で大仏建立を発願し、実際に造り始めていた事は、あまり知られていない。

従来から「紫香楽宮跡」と呼ばれてきた場所(内裏野地区)は、甲賀寺跡と考えられている。これは宮町遺跡の発見によるところが大きい。今回はその話をご紹介したいと思う。

契機は1971年(昭和46)、宮町で圃場整備工事中に巨大な掘立柱の柱根が発見された。
内1本は742年(天平14)から743年(天平15)に伐採されたことが年輪年代法で特定された。
1980~82年(昭和55~57)、遺跡の分布調査が行なわれ、信楽各地で遺物が発見された。

この間、1981年(昭和56)に、黄瀬地区で近世古文書の調査が行なわれた。
その結果「内裏野」という地名は1677年(延宝5)より以前には遡らないことが明らかになる。内裏野地区が宮殿跡と考えられてきた根拠の1つがひっくり返ったのである。

1984年(昭和59)から宮町遺跡の発掘調査が行なわれ、2012年1月で第40次調査に及ぶ。2000年(平成12)、第28次調査でついに宮町遺跡の中心部が見つかった。
2005年(平成17)、国史跡「紫香楽宮跡」に宮町遺跡が追加指定された。

宮町遺跡の案内板(甲賀市信楽町宮町)
宮町遺跡の案内板(※こちらをクリックすると拡大写真が出ます)

宮町遺跡の中心部(甲賀市信楽町宮町)
宮町遺跡の中心部。(撮影地:宮町会館前)

紫香楽宮の造営が始まったのは、742年(天平14)。当時の時代背景は混沌としていた。
737年(天平9)、天然痘の大流行により藤原不比等の息子4人がそろって急死する。
代わって政権を握った橘諸兄に対し、740年(天平12)9月、藤原広嗣が反乱を起こした。
同年10月上旬、反乱の続く中を、聖武天皇は平城京を後にして伊勢に行幸する。
広嗣の処刑後も聖武天皇は都に戻らなかった。恭仁京を造営して遷都すると宣言する。
約4年半後に平城京に戻るまで、聖武天皇とともに都が移動する事態となる。

恭仁京の造営を進めながら紫香楽に離宮が造られたのが、742年(天平14)である。
聖武天皇は紫香楽に頻繁に行幸し、10月に大仏建立の詔を出して甲賀寺を開いた。
紫香楽宮と甲賀寺の造営が重なり、743年(天平15)に恭仁京の造営は中止される。

しかし、744年(天平16)閏1月、突如として都が恭仁京から難波京に移る。
2月24日、聖武天皇は紫香楽に去るが、26日、橘諸兄が難波京を都とする詔を読み上げた。
その間甲賀寺の造営は進み、11月に大仏の体骨柱(内型の芯の木組の柱)が立てられた。
難波京と紫香楽の間では、政治的な緊張が数ヶ月続いたと言われている。
745年(天平17)の元日、紫香楽宮は「新京」と呼ばれ、都となった。

宮町遺跡・あさかやま木簡案内板(甲賀市信楽町宮町)
宮町遺跡から出土した万葉歌木簡「あさかやま」(※こちらをクリックすると拡大写真が出ます)

2008年(平成20)5月、宮町遺跡で発見された「あさかやま木簡」が話題となった。
「あさかやま」は、『万葉集』の巻16の3807番に収録されている歌である。
安積香山(あさかやま) 影さへ身ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに

万葉集は、まず15巻本が、745年(天平17)から数年の間に成立したと考えられている。
ところが、この木簡は744年(天平16)末か745年(天平17)初め頃に廃棄されたと判明した。つまり、万葉集成立前に、万葉集収録の歌が木簡に記載されていたことになる。

万葉集は民間に流布していた歌を取り入れて成立したと考えられている。
宮町遺跡の「あさかやま木簡」は、そのことをを初めて裏付けた、貴重な史料なのである。

そして、この「あさかやま」は「難波津の歌」が書かれた木簡の裏から見つかっている。
「あさかやま」の歌とセットで手習いに使われるのが、「難波津の歌」である。
こちらは10世紀になって編纂された『古今和歌集』の「仮名序」に見える。
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり いまは春べと 咲くやこの花

紀貫之は「仮名序」で、なにはつ-あさかやまの2つの歌は、歌の父母のようなものと記す。木簡の発見で「仮名序」より150年以上前に両歌の組み合わせが存在したことが判明した。

宮町から見た飯道山(甲賀市信楽町宮町)
宮町から見た飯道山(はんどうさん)。山岳信仰と修験道の山である。

愛宕山夜燈(甲賀市信楽町宮町)
宮町の集落で見かけた愛宕山夜燈。弘法大師の名も見える。

宮町会館前の石仏(甲賀市信楽町宮町)
宮町会館前には、たくさんの石仏があって圧倒された。
ここから南下して、内裏野地区(甲賀寺跡)へと向かった。

新宮神社遺跡案内板(甲賀市信楽町黄瀬)
「新宮神社遺跡」の案内板に出会った。紫香楽宮の役所跡と考えられている場所だ。
ここはちょうど宮町遺跡と内裏野地区の中間にあたる。
宮町遺跡中心部が見つかった2000年(平成12)、ここで南北に走る道路と橋脚が見つかった。
その後、内裏野地区から宮町遺跡周辺に多くの遺跡が眠っていることが明らかになってきた。

第二名神高速道路の橋脚(甲賀市信楽町黄瀬)
「新宮神社遺跡」の上を走るのは、第二名神高速道路。

甲賀市信楽町黄瀬
信楽町黄瀬(きのせ)の交差点にて。内裏野地区へはあと1km。

紫香楽宮跡「内裏野地区」の池(甲賀市信楽町黄瀬)
紫香楽宮跡「内裏野地区」。
1926年(大正15)に国史跡の指定を受けた時点では、宮殿跡と考えられていた。

紫香楽宮跡「内裏野地区」の礎石(甲賀市信楽町黄瀬)
内裏野地区には多くの礎石が残っている。
現存する礎石遺構の建物規模は東大寺の4分の1だが、丘陵自体は東大寺とほぼ同規模だ。
そして、中心伽藍は、東大寺の大仏殿の位置に重なることが分かっている。
今後の発掘調査によって、多くのことが明らかになっていくだろう。

信楽において、大仏建立という、世紀の事業が発願されたことは、銘記すべきである。天平十六年一月には実行に移され、甲賀の寺(信楽)に大仏の骨柱が建ち、「天皇親から臨みて、手づからその縄を引く」(続日本紀)。簡潔な文章だが、喜びにあふれた天皇の、ひたむきな姿が目に浮ぶ。-白洲正子『近江山河抄』「紫香楽の宮」

紫香楽宮跡「内裏野地区」の神社(甲賀市信楽町黄瀬)
内裏野地区に建てられた神社。
信楽高原鉄道の紫香楽宮跡(しがらきぐうし)駅は、このすぐそばにある。
今回はJR貴生川駅から飯道山・飯道神社を経由して、宮町から紫香楽宮跡駅まで歩いた。飯道山・飯道神社については、前回をご参照いただきたい。

 

745年(天平17)に都となった紫香楽宮のその後を、最後に記しておきたい。
同年4月から、紫香楽宮周辺で、遷都に不満を持つ者による放火が相次いだ。
そこへ地震が襲う。また、聖武天皇の皇子・安積親王が17歳で亡くなった。
聖武天皇は5月に恭仁京へ、そして平城京へと移った。6月、平城京遷都が公示された。
「連れ戻された、という方が適切であろう。」と白洲正子さんは述べている。

もっとも、大仏が奈良で造営されることになっても、甲賀寺の造営は続けられた。
都でなくなってからも紫香楽宮には留守官が任命され、兵士も派遣されていたようだ。
甲賀寺は最後は火災で焼失したと考えられている。
(撮影日:2013年10月6日)

出典:「天平の都と大仏建立-紫香楽宮と甲賀寺-改訂版」(甲賀市教育委員会編、2012年)

 

金勝寺正面参道と仁王門
付記:滋賀県栗東市の山中に、奈良の都を守護するために建てられた寺がある。
平城京の鬼門(北東)に位置しており、寺は奈良を向いて建てられている。
その事は、殆ど知られていない。

天平5年(733)、聖武天皇の勅願により、良弁(ろうべん)によって金勝寺は開かれた。
良弁は近江出身で、奈良の大仏を造営した功績で東大寺の初代別当となった僧である。
金勝寺の山続きに信楽(甲賀市信楽町)があって、聖武天皇が作った紫香楽宮の跡がある。
紫香楽の宮2(奈良平城京の鬼門・金勝寺と狛坂磨崖仏/知られざる金勝の石仏たち)
紫香楽の宮3(かくれ里「金勝」。大野神社、金勝寺里坊、金胎寺から金勝寺へ)

西応寺境内の石仏
金勝寺(こんしょうじ)の文化圏は、大津市から栗東市、湖南市、甲賀市と広範囲に及ぶ。
金勝寺、石山寺、常楽寺、長寿寺など、近江南部には良弁によって開かれた寺院が多い。
常楽寺と長寿寺は紫香楽宮の鬼門(北東)に建てられた寺である。
紫香楽の宮4(聖武天皇と良弁僧正ゆかりの寺、安養寺と西応寺)
紫香楽の宮5(青もみじの季節に行く、常楽寺と長寿寺)
紫香楽の宮6(正福寺と廃少菩提寺)

石山寺境内と硅灰石の奇岩
聖武天皇は良弁に命じて、大仏造立に必要な黄金が得られるよう、吉野の金峯山に祈らせた。
夢のお告げにしたがって石山を訪れた良弁は、比良明神の化身である老人に導かれる。
巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の6寸の金銅如意輪観音像を安置し、草庵を建てたという。
紫香楽の宮1(瀬田川と石山寺)

狛坂磨崖仏

狛坂廃寺の石仏については、前にも書いたことがあるが、ひとくちに金勝山(こんぜやま)といっても、その周辺を歩いてみると、想像以上に規模の大きいことに驚く。紫香楽の宮の背後には、莫大な勢力と、財産が蓄積されていた。奈良の大仏は、忽然と出現したのではない。三千世界を象徴する毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)の理念は、金勝山を中心とする信仰と、歴史の層の厚みによって、はじめて達成することを得たのである。肝に銘じて、そのことを知っていたのは、或いは良弁と聖武天皇の二人だけであったかも知れない。-白洲正子『近江山河抄』「紫香楽の宮」

 

次回:鈴鹿の流れ星4(甲賀市甲南町:竜法師と甲賀忍者屋敷、瀬古の流星、矢川神社、新宮神社、正福寺)の予定です。


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