比良の暮雪6(近江高島:白鬚神社、鵜川四十八体石仏群、大溝城跡、乙女が池)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(41)

白鬚神社と琵琶湖-2
白鬚神社といえば、琵琶湖の中に建つ鳥居で知られ、近江の厳島とも呼ばれている。
白洲正子さんは白鬚神社から、対岸の長命寺の方向を見たときの感想を述べている。
とても印象的な一節だったので、いつかこの風景を撮影したいと思ってきた。

湖水の中の鳥居に、すっぽりとはまりこんだ工合に、長命寺の岬が見え、沖の島が霞んでいる。その時私は、妙な気持がした。もしかすると、この鳥居は、向う側を遥拝するために造られたのではないか。

いや、そんな筈はない、とすぐ思い返したが、その印象がぜんぜん間違っていたとは思えない。鳥居は白鬚神社のものに違いないが、同時に、沖の島を遥拝する目的もあったので、比良の麓に居住した帰化人たちは、玄界灘の荒波をしのぎつつ、神の島に航海の無事を祈ったときの光景を、まざまざとそこに見たに相違ない。

・・・厳島神社の祭神も市杵島比売であるのを思う時、鳥居を水中に建てたことのほんとうの意味がわかるような気がする。-白洲正子『近江山河抄』「沖つ島山」

白鬚神社境内(例祭の日に)
白鬚神社は、桧皮葺の社殿が湖岸ぎりぎりに建ち、背後の山には社が並ぶ。
どこかエキゾチックなところがある神社で、以前からどう表していいか分からなかった。
白洲さんの『近江山河抄』を読んだとき、そうか・・・と、腑に落ちる感覚があった。

白鬚神社背後の社-1

白鬚神社背後の社-2

この神社も、古墳の上に建っており、山の上まで古墳群がつづいている。祭神は猿田彦神ということだが、上の方には社殿があって、その背後に、大きな石室が口を開けている。御幣や注連縄まではってあるのは、ここが白鬚の祖先の墳墓に違いない。-白洲正子『近江山河抄』「比良の暮雪」

白鬚神社社殿(例祭の日、神楽の受付)
9月5日の例祭に撮影させていただいたもの。この日は特別に神楽の受付をしていた。
案内板に書かれていた謡曲「白鬚」の世界を彷彿させる風景だった。

謡曲「白鬚」の案内板(白鬚神社)

お能にも「白鬚」という曲がある。・・・社伝と共通するのは、高齢の老人が、湖水で釣りをしていることで、そういう姿が、白鬚の神を象徴したことは確かである。[土地をゆずってくれないかと交渉した]釈迦はいうまでもなく仏教の代表者で、[翁が、六千年も前から、この山の主として住んでいるので、釣りをする場所がなくなるからいやだといって]土地をゆずることを拒んだのは、そこに何らかの抵抗があったことを暗示している。

白鬚神社の建つ岬を、「権現崎」と呼ぶが、その北には安曇(あど)川の三角州がつき出ており、古くは安曇(あずみ)族の根拠地であった。彼らがどこから来たか不明だが、漁業に携わる特殊な集団で、越前の方から流れついた外来民族ではないかといわれている。-白洲正子『近江山河抄』「比良の暮雪」

白鬚神社境内の鳥居

白鬚神社と琵琶湖-3
白鬚の翁について、白洲さんは興味深い考察をしている。
大津市にある三井寺の「新羅明神」と、石山寺縁起絵巻の「比良明神」に類似性を見出す。三井寺の新羅明神も老人の姿をしており、シラヒゲはシラギの訛ったものではないかという。そして何より、比良明神は白鬚神社の別名である。

比良明神影向石(石山寺)
石山寺縁起絵巻では、比良明神は釣りをする老人の姿で現われ、近江の地主と名乗る。
写真は比良明神が座っていたという「比良明神影向石」(ようごうせき)で、石山寺で撮影。

石山寺の開祖・良弁僧正は、大仏建立に必要な黄金の調達を聖武天皇に命じられる。
お告げの地を求めて石山を訪れた良弁に、この地が霊地だと教えた老人が比良明神である。「ここでも釣りをする翁は、自分の土地を提供しようとはいわぬ」と白洲さんは指摘する。

もし私が想像したように、比良山が黄泉比良坂であるならば、・・・たとえ仏僧といえども、近づくことを拒否する禁足地であった。そういうことを思い合わせると、白鬚の神の勢力は、比良山の東側だけでなく、遠く湖南の方まで及んでいたことがわかる。-白洲正子『近江山河抄』「比良の暮雪」

秋の澄み切った青空と琵琶湖
白鬚神社例祭の日は、地元の方も声をあげるほどの澄み切った青空と湖面だった。
琵琶湖を撮影した後、歩いて鵜川四十八体石仏群へと向かった。

鵜川四十八体石仏群の入口
白鬚神社の前を通る西近江路を10分程歩くと、鵜川四十八体石仏群の入口がある。
この山沿いの古道が「西近江路」(北陸道)の旧道で、往時の面影を残している。
道路は車が一台通れるくらいの幅で、すれ違いは難しそうだった。
撮影したのは9月初めだったので、林の中ではセミが鳴き、沢山のトンボが飛んでいた。

鵜川四十八体石仏群-1
しばらく歩くと、目の前に突然墓地が現われ、たくさんの石仏が並んでいた。圧倒された。

鵜川四十八体石仏群-2
鵜川四十八体石仏群。花崗岩で作られた、室町時代の阿弥陀如来石像である。

以前ご紹介した近江佐々木氏の一族で、安土の観音寺城の城主・六角義賢が、母の菩提を弔うため、母の郷里である鵜川の地に、天文22年(1553年)に作ったとされる。

このうち十三体は、江戸時代初めに大津市坂本の慈眼堂に移されている。
また二体は、昭和62年10月に盗難に遭い、鵜川に残るは三十三体である。

慈眼堂の阿弥陀如来石像案内板
慈眼堂の阿弥陀如来石像
写真は、坂本の慈眼堂に移された阿弥陀如来石像。(後ろは穴太積の石垣。)

万葉の句碑(鵜川四十八体石仏群付近)-1
鵜川の旧道を進むと、白鬚浜水泳場の前で車道と合流する。万葉の句碑が置いてあった。
「思いつつ来れど来かねて水尾が崎 真長の浦をまだかへり見つ」

作者が北陸から都に帰る船旅の途中に、真長の浦の風光にひかれて詠んだ歌だとある。
勝野で知り合った人が思い出され、水尾が崎を回りかねているとも読める。
(勝野=現在の滋賀県高島市勝野)

万葉の句碑(鵜川四十八体石仏群付近)-2
高島市勝野は、764年の恵美押勝の乱の戦場になったところである。
恵美押勝(藤原仲麻呂)が孝謙天皇の軍勢に攻められ壊滅したのが、「勝野の鬼江」。
「勝野の鬼江」があったのが、現在の「乙女が池」のあたりだといわれている。
鵜川から西近江路を離れて勝野に入ると、乙女が池が広がっている。

乙女が池と柳と太鼓橋
乙女が池。琵琶湖の内湖で、琵琶湖とつながっている。
太鼓橋と柳の木に風情があり、時代劇のロケ地にできるような雰囲気だ。

乙女が池と民家
乙女が池は、池というよりは小さな湖で、民家の向こうには琵琶湖が広がっている。
歴史の愛好家や釣り人がよく訪れる。ここから近江高島の駅まで徒歩10分ほどだ。

大溝城跡-1
乙女が池の隣にあるのが、大溝城跡。今は本丸跡の石垣が残るのみである。
織田信長が安土城を築いた頃、対岸の高島に築かれたのが、大溝城だった。
琵琶湖と内湖を巧みに取り込んで築いた水城で、明智光秀の設計と伝わっている。

大溝城跡-2
天承六年(1578)、信長は、甥の織田信澄(のぶずみ)を大溝城主とした。
ところが信澄は光秀の娘を妻としていたため、本能寺の変の後、嫌疑をかけられて自害。
後に城主となったのが、以前墓所(徳源院)をご紹介した京極高次である。
高次の正室がお初(浅井三姉妹の次女)で、お初は大溝城で新婚生活を送った。

万葉の句碑と三尾山(乙女が池付近)
乙女が池の太鼓橋の前に、万葉の句碑がある。
「大船の香取の海に碇おろし いかなる人か物思はざらむ」

高島の地は、古くから西近江路(北陸道)と若狭路との分岐点で、水陸交通の要衝だった。
今から1300年前の万葉の時代、琵琶湖は山麓に向かって湾入し、大きな入り江を作った。それが現在の乙女が池である。歌に詠まれている「香取の海」は乙女が池一帯をさしている。
写真前方に見える山が「三尾山」で、672年の壬申の乱の戦場となった。

万葉の句碑と三尾山

高島は美しいまちで、何度も訪ねている。また必ず伺います。(撮影日:2013年9月5日)
※「比良の暮雪」シリーズは、台風18号の被害地域が落ち着くのを待って再開します。

 

次回予定:鈴鹿の流れ星1(甲賀市甲南町竜法師:忍者の里の秋)


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