大津の京3(近江大津宮跡と崇福寺跡) ~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(9)

旧錦織村の六地蔵
琵琶湖を望む高台を歩くと旧錦織村の六地蔵があった。錦織は近江大津宮があった地だ。

667年、中大兄皇子は都を大津へ移し、その翌年、即位して天智天皇となった。
その後天武天皇が飛鳥浄御原宮を造営したため、大津宮は5年余りしか使われなかった。

近江大津宮の場所をめぐっては、長年論争があったという。

1974年、錦織(にしこおり)遺跡の調査で、第一地点から内裏南門跡が発見される。
錦織遺跡は近江大津宮跡とされ、1979年に国の史跡に指定された。

往時をしのぶものがあればと思って歩き回ったが、住宅街で、古いものには出会わない。
古墳があるというので探してみたが、工事現場のダンプカーがひっきりなしに来る。
結局引き返したが、唯一出会えたのが旧錦織村の六地蔵だった。

史跡近江大津宮錦織遺跡(第八地点にある案内板)
錦織遺跡第八地点は、京阪石山坂本線「近江神宮前」駅すぐそばの住宅街の一角にある。
(※踏切を渡らず、踏切とは逆方向に向かって下さい。車道に突き当たる手前にあります。)

錦織遺跡の西側を南北に走る道路が、後世に西近江路と呼ばれた交通路である。
西近江路は近江から越前へ通じる街道で、古来より都と北陸を結ぶ道として栄えた。

前回の鞍掛神社(衣川)は西近江路の街道筋にあるし、比良の暮雪も西近江路の風景だ。なんと言っても西近江路には、これからご紹介する予定の文化財が多い。

史跡近江大津宮錦織遺跡(第八地点)
「近江大津宮錦織遺跡」第八地点。発掘調査はまだ行われていないという。

西近江路を北上すると、滋賀里、坂本、そして堅田へと続く。
滋賀里には、大津宮と同時代に栄え、大津宮滅亡後も栄えた「崇福寺」の跡が残る。
崇福寺跡は、大津宮のあった時代を彷彿させる数少ない場所でもある。

近江神宮前(錦織の最寄り駅)と滋賀里は、京阪電車で3分。
滋賀里駅から徒歩15分で、志賀峠の入り口に着く。
峠の手前には「百穴古墳群」があり、「志賀の大仏(おぼとけ)」もあるが、こちらは次回。

志賀峠の入り口には小さな石仏
志賀峠の入り口には小さな石仏があり、一面に竹林が広がる。

山中越(志賀越)は、京都と近江を結ぶ古くからのルートのひとつである。
滋賀里から崇福寺跡・志賀峠を通り、山中町を経て北白川、京都へと通じている。

崇福寺跡へ続く山道
崇福寺跡へ続く山道。この一帯は比叡山延暦寺に近く、東海自然歩道になっている。

三井寺~弘文天皇陵~近江神宮~崇福寺跡~比叡山(東海自然歩道案内板)
三井寺(逢坂越の傍)~弘文天皇陵(市役所裏)~近江神宮(錦織)~崇福寺跡~比叡山。

この略図(東海自然歩道案内板)を見れば、大津という町が分かっていただけると思う。
三井寺(園城寺)-比叡山(延暦寺)は、いわば大津の縦糸のようなものである。
私はこのエリアで育ったので、そのことが感覚的として分かる。

崇福寺跡
崇福寺は、668年に天智天皇の命により近江大津宮の北西の山中に建立された。

崇福寺跡(案内板)
延暦年間に十大寺(当時のベストテン)に選ばれるなど栄えたが、室町時代には廃寺となる。
三井寺(園城寺)と比叡山(延暦寺)との抗争に巻き込まれたという。

崇福寺跡(小金堂跡案内板)
崇福寺跡は三つのエリアに分かれている。そのひとつが、小金堂跡(図面の左側)。

崇福寺跡(小金堂跡)
小金堂跡。礎石が残っているので、上の図面(左側)と比較して頂きたい。

崇福寺跡(小金堂跡)に落ちていた瓦
小金堂跡に落ちていた瓦。無数に落ちていた。いつの時代のものかは不明。

崇福寺跡(塔跡案内板・舎利容器の解説)
小金堂跡の隣にある「塔跡」から、美しい瑠璃壺の入った舎利容器が見つかっている。

木漏れ日(崇福寺跡に続く山道にて)
万葉集には、柿本人麻呂が滅亡後の近江大津宮へ訪れて往事を偲んだ歌が残されている。

「ささなみの 志賀の大曲 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも」
「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ」

人麻呂が見たのは、いったいどんな景色だったのだろうか。
崇福寺跡に続く道の木立から差し込む光は、とても穏やかで、ゆったりと時間が流れていた。

大津の京4(志賀の大仏と百穴古墳群)へ続きます。


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