大津の京2(天智天皇山科陵) ~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(8)

天智天皇山科陵参道
天智天皇の山科陵。木々に囲まれた長い参道が続く。

その名の通り、天智天皇山科陵は京都の山科区にある。
『近江山河抄』の中では、近江(滋賀)以外の地が登場する、数少ない場面である。

白洲さんは天智天皇陵について次のように書いている。
「御陵は山科から逢坂山へ向う東海道の道ばたにある。入口は埃っぽいが、
参道に入ると、老樹の並木がつづき、さすがに奥深い感じがする。」

ちなみに、天智天皇陵周辺を撮影した写真は↓こちら。

天智天皇山科陵周辺(JR貨物が走る風景)
目の前の高架を、JRの貨物列車が走っていく。傍らには幹線道路。
線路(高架)の右方向が京都方面で、左が山科方面になる。

以前、JRの車窓から見える立派な参道が気になって調べたら、この天智天皇陵だった。天智天皇陵の最寄り駅は「御陵」(みささぎ)といい、付近の地名は御陵○○町となっている。京都市営地下鉄(京阪電車乗り入れ)の御陵駅から、緩やかな坂道を下ること徒歩10分。

天智天皇山科陵入り口
こちらが天智天皇山科陵の入り口。松の木が見事だ。

歴代の天皇陵は京都の伏見区に多く、天智天皇陵だけが山科にあるという。
そのため、天智天皇の亡くなった状況について、いろんな考え方や解釈があるようだ。
歴史の話は、何に光を当てるかで違ってくる難しさがあるが、時代を振り返ってみたい。

天智天皇山科陵(宮内庁掲示)
中大兄皇子(後の天智天皇)は、645年大化の改新を行い、667年大津宮に都を移した。

当時、蘇我氏が絶大な力をもっていた。蘇我氏は聖徳太子の子を襲い一族を滅亡させている。
中大兄皇子は、中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす。入鹿の父・蘇我蝦夷は翌日自害した。更にその翌日、皇極天皇の弟を即位させる(孝徳天皇)。
中大兄皇子は皇太子となって様々な改革(大化の改新)を行なった。(参考:ウィキペディア)

663年の白村江の戦いで大敗を喫し、対外的にも憂慮を抱えていた中大兄皇子。
体制を立て直すため、豪族の勢力の強い飛鳥(奈良)から大津を都に移したと言われる。

天智天皇山科陵参道を行く
遷都の翌年(668年)、中大兄皇子は即位して天智天皇となる。

『近江山河抄』によれば、大津宮の辺りには大友氏、錦織氏など帰化人の氏族が住んでいた。天智天皇は大友氏などを頼りに新しい国づくりを試みたのではないかと、白州さんは指摘する。

天智天皇の息子・大友皇子は、母親が伊賀氏であることから、初めは伊賀皇子と呼ばれていた。大友皇子と呼ばれるようになったのは、大友氏が主な支持勢力だったためと推察されている。

天智天皇山科陵参道と門
参道の先に門があって、さらに奥へ続いている。ここまで来る人は殆どいない。
この手前までは憩いの場になっていて、散歩やジョギング、リハビリをしている人に会った。

天智天皇山科陵参道(石畳)
見事な石畳の参道が続いている。右手の奥に天皇陵が見えている。

雨の日は滑りやすいので気をつけて下さいという、宮内庁の看板があった。
石畳の間に隙間があるので、参拝される方は足元をしっかりしていくことをお勧めします。

天智天皇山科陵参道の林
弟である大海人皇子と、息子の大友皇子の関係に、天智天皇は最後まで悩んだという。

即位の約1ヵ月半後に、天智天皇は大海人皇子(後の天武天皇)を皇太弟とした。
しかし、671年になると、大友皇子(後の弘文天皇)を史上初の太政大臣としている。
その年のうちに大海人皇子が皇太弟を辞退すると、代わりに大友皇子を皇太子とした。

672年に天智天皇が没すると、大友皇子と大海人皇子の間に壬申の乱が起きる。

645年に皇太子、661年に称制(事実上の天皇)となり、668年即位、672年崩御。時に46歳。皇太子から称制までの間に、実に20年近い間があり、歴史上の大きな謎とされている。時代の変革期に、内外に憂慮を抱えての激動の一生だった。

天智天皇山科陵と広場
御陵の前は、清らかな広場になっており、上円下方の珍しい様式で、背後の山を鏡山という。
山科陵の印象を白洲さんはそう記す。そして近江の鏡山とは関係がないとも書いている。古来より「鏡」は、多くの場合、墳墓の地を示す名称だったという。

天智天皇山科陵
天智天皇山科陵

実は同じ日の午前中、弘文天皇(大友皇子)の長等山陵にも行っていた。
弘文天皇陵のほうは、大津市の御陵町(ごりょうちょう)にある。
この2つの御陵、一日で一緒に回れるので、最後にメモでご紹介したい。

※この連載の「大津の京」2以降と、「逢坂越」1~5は、2013年3月の同日に撮影しています。
※弘文天皇陵については、「大津の京5」でご紹介する予定です。

天智天皇山科陵前の日時計
山科陵前の日時計。天智天皇が日本で初めて水時計(漏刻)を設置したことに因む。
天智天皇を祀る近江神宮にも、日時計が設置されていたことを思い出す。

天智天皇山科陵参道の道標
天智天皇山科陵の道標。御陵駅一番出口を出て、山科陵へ向かう途中にある。
御陵駅を出てからの目印がほとんど見当たらなかったので、ご参考になれば幸いです。

大津の京3(近江大津宮跡と崇福寺跡)へ続きます。