大津の京1(大友皇子最期の地と、鞍掛神社の伝説)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(7)

天神川とボケの花
堅田と衣川の間を流れる天神川。岸辺にボケの花が咲いていた。

天神川と桜
天神川では桜の木が一本だけ満開になっていた。向こうに見えているのが、明神橋。

比良八講(前回掲載)の帰りに立ち寄ったのが、衣川(きぬがわ)の町だった。
「大津の宮」ゆかりの地の撮影は全部終わっていたが、今どうしても訪ねたかった。

天智天皇の子、大友皇子(弘文天皇)が最期を迎えた場所という伝説が残る場所。
それが今回ご紹介する「鞍掛(くらかけ)神社」である。

鞍掛神社参拝道の道標
明神橋を渡ったところに、参拝道の道標がある。

湖西線、緑色の電車(JR113系)がすれ違う風景
高台から湖西線の高架がよく見える。緑色の電車(JR113系)がすれ違う風景に出くわす。

あまり知られていない場所なので、行き方を簡単に書いておくと・・・
◇JR湖西線「堅田駅」より江若バス堅田町内循環線(乗車7分)、「仰木道」下車。
◇仰木口(国道161号線)から県道313号線へ入り、徒歩約10分で明神橋がある。
◇天神川を渡り、高台に続く道を直進。アオタニサッシさんのすぐ先で右折。
◇住宅街の坂道を登っていくと、児童公園がある(衣川城跡の石碑がある公園)。
◇公園の上の道を右折。駐車場があって、その奥に鞍掛神社がある。

鞍掛神社と梅の花
鞍掛神社の境内では、ちょうど梅の花(白梅)が満開だった。すぐに鳥居と本殿がある。

清冽な空気が辺りを包んでいる。神社というより天皇陵の持つ雰囲気だ。
この撮影の10日前、弘文天皇陵と天智天皇陵に参拝していたから、そう感じたのかもしれない。

鞍掛神社の鳥居
大友皇子が最期を迎えた場所は分かっていない。

天智天皇が大津宮で亡くなった後、皇位をめぐって壬申の乱(672年)が起きた。
大海人皇子(天智天皇の弟)と大友皇子(天智天皇の息子)が争い、大友皇子は敗れる。

大友皇子が最期を迎えた場所について、日本書紀には次の記述がある。
「走(に)げて入らむ所無し。乃(すなわ)ち還りて山前(やまさき)に隠れて、自ら縊(くび)れぬ」。

山前の場所は特定できていない。

『近江山河抄』で白洲正子さんは、崇福寺(滋賀里)のあたりではないかと書いている。
それを読んだ時、堅田で聞いていた鞍掛神社の話を思い出した。

鞍掛神社の本殿
鞍掛神社の伝承は日本書紀と異なる。大友皇子は従者とともに衣川の地に落ち延びた。

皇子は乗ってきた馬の鞍を柳の木に掛けると、自ら命を絶ったという。神社の名前の由来である。
882年、陽成天皇の勅命によって鞍掛神社が創建された。

鞍掛神社
伝承では大友皇子の最期をみとった二人の侍臣がいた。農民となって衣川に定住したという。その子孫は同じ名字を名乗るようになった。そして、氏子として今も神社を守っている。

皇子の命日は7月23日とされるため、鞍掛神社では7月第3日曜日に例祭を行なっている。

由緒によれば、大友皇子は古来より、学問の神・厄除け霊験の神として信仰されてきた。
大友皇子は日本で始めて「五言の詩」を作ったことから、学問の神とされている。

鞍掛神社にお供えしてあった水仙の花
鞍掛神社の境内にお供えしてあった、たくさんの水仙の花。(2013年3月26日撮影)

(撮影後記)
ある氏子の方(当ブログの読者の方)から堅田で鞍掛神社の話を聞いたのが、2年前の3月。2011年の3月、東日本大震災の直後で、そのときのお話をようやくまとめることができました。『近江山河抄』には直接出てこない場所ですが、この機会に改めてご紹介させて頂きました。

堅田周辺もまた歴史と文化の宝庫です。お近くの方は、ぜひお参りくださいませ。

大津の京2(天智天皇山科陵)へ続きます。

 

(追記)
○2013年の例祭は第2日曜日開催です。7月14日11時より、鞍掛神社にて。(2013/7/6)
▼2013年度の例祭の写真をこちらに掲載しています。(2013/7/17)
http://katata.info/2013/07/kurakake-shrine-1/


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