蓮如を匿ったことで焼き討ちに遭った堅田の町 (滋賀県大津市) 【後編】 ~Honkatata/本堅田 358

本福寺の蔵

京都を追われた蓮如が本拠地としたのが、本堅田の本福寺。その境内にある蔵の前で撮影しました。
以下、前回の「堅田と蓮如の話」の続きです。


蓮如を匿う堅田の町を、比叡山延暦寺が焼き討ちする事態に発展します。
これが、1468年の「堅田大責」(かたたおおぜめ)と呼ばれる歴史上の事件です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/堅田に詳しく出ていたので、以下、引用させていただきました。

だが、領主である延暦寺が「仏敵」とした蓮如を堅田が匿っているという事実は延暦寺を刺激した。

更に延暦寺はかねてから殿原衆(注:堅田の地侍)が勝手に上乗(注:琵琶湖の通行税)を請求していることに対しても不満を抱いていた。

そんな最中の応仁2年(1468年)、室町幕府御蔵奉行が花の御所再建のために調達した木材を運搬する船団が上乗を払わないことを理由に堅田衆によって積荷を差し押さえたのである。

激怒した室町幕府8代将軍足利義政は領主である延暦寺に堅田の処分を要求した。
同年3月24日(ユリウス暦4月16日)、延暦寺は堅田に対して焼き討ちを行った。

これによって延暦寺を支持していた地域を含めて堅田の町のほぼ全域が焼失して住民は沖島に逃れたという。これを堅田大責(かたたおおぜめ)と言う。


沖島に逃れた人達はわずか2年後、延暦寺に多額の礼金を上納して再び堅田へ帰ってきたといいます。祭りのお神輿を持って逃れたという逸話のあるくらい、経済的にも精神的にも豊かな人達だったのです。殿原衆(地侍)の権威は失墜し、全人衆(商工業者・周辺農民)が堅田の実権を握ることになりました。

一方蓮如は、堅田大責の後、比叡山に近い堅田の地をあきらめ、北陸へと向かうことになります。浄土真宗(一向宗)は、近畿・北陸・東海地方で急速に強い影響力を持っていきました。

堅田大責からちょうど20年後の1488年。有名な「加賀の一向一揆」が起こり、加賀の守護が倒されます。加賀ではその後一世紀にわたって民衆の自治が続いていくことになったのでした。

堅田大責は、歴史の大きなうねりの中での転換点のひとつだったように感じます。
時代に翻弄されつつも強い力を発揮した個人。団結の力のすごさ。そんなことを感じた堅田のお話でした。


堅田(滋賀県大津市)の写真 本堅田 本福寺8 「本福寺の蔵」
Photograph of Honatata,Otsu,Shiga,Japan  Honkatata Honpuku-ji temple 8
2010.01.09 11:25:26 ”Kura (storehouse) of Honpuku-ji temple”

■撮影地:本福寺(真宗大谷派)■拝観:境内自由
■住所:滋賀県大津市本堅田1丁目22-30■TEL: 077-572-0044
■地図はこちら(Google mapへのリンク)





蓮如を匿ったことで焼き討ちに遭った堅田の町 (滋賀県大津市) 【前編】 ~Honkatata/本堅田 357

本福寺の梅の木と本堂

写真は、本堅田の本福寺の本堂と、本堂の前にある梅の木です。
梅の花が咲くのはもう少し後のようですが、静かな境内にはどこか春の気配が漂っていました。


2/23の当ブログ(今堅田の泉福寺)で、京都の本願寺を追われた蓮如が数年間堅田に滞在した話を書きました。そのとき蓮如の本拠地になったのが、この本福寺です。それゆえ、本福寺は本願寺旧跡とも呼ばれます。

本福寺の三代目住職・法住のもとに結集して蓮如を守ったのは、商工農業を生業とする人々でした。堅田の「全人衆(まろうどしゅう)」と呼ばれた人達です。蓮如は後に「堅田門徒」と称せられるほどの勢力をこの地に築くことになります。

しかし蓮如を匿ったことで、堅田の町は焼き討ちに遭うことになるのです。それも、比叡山延暦寺によって。背後には室町幕府の命令までありました。(この続きは次回に。)


堅田(滋賀県大津市)の写真 本堅田 本福寺7 「本福寺の梅の木と本堂」
Photograph of Honatata,Otsu,Shiga,Japan  Honkatata Honpuku-ji temple 7
2010.01.09 11:25:10″ Plum tree and main hall of Honpuku-ji temple”

■撮影地:本福寺(真宗大谷派)■拝観:境内自由
■住所:滋賀県大津市本堅田1丁目22-30■TEL: 077-572-0044

本福寺の松(滋賀県大津市) ~Honkatata/本堅田 356

本福寺の松

どーんと受け止めてくれるかのように、松の木が境内いっぱいに枝を伸ばしていました。
正面がお寺の本堂で、右手の奥には・・・なんと保育園があります(本福寺保育園)。

本福寺は由緒ある寺で、歴代の和尚様は、室町時代には京都を追われた蓮如上人を保護し(三代住職・法住)、江戸時代には松尾芭蕉の弟子となる(十一代住職・千那)など、歴史に登場する文化人なのです。

京都の町は応仁の乱で焼けてしまったので、室町時代の暮らしぶりが書かれた書物は、この本福寺にだけ残っていたりもします。(五~七代の歴代住職が書いた日記で、「本福寺跡書(ほんぷくじあとがき)」と言います。)
こんな深い歴史のある堅田は、やっぱりすごい町だと思いました。

※芭蕉が本福寺で詠んだ句などについては、こちらの「本福寺」の部分を御参照ください。temples and shrines at Honkatata/本堅田の寺社


堅田(滋賀県大津市)の写真 本堅田 本福寺6 「本福寺の松」
Photograph of Honatata,Otsu,Shiga,Japan  Honkatata Honpuku-ji temple 6
2010.01.09 11:26:20″ The pine tree at Honpuku-ji temple”

■撮影地:本福寺(真宗大谷派)■拝観:境内自由
■住所:滋賀県大津市本堅田1丁目22-30■TEL: 077-572-0044

堅田の路地(滋賀県大津市) ~alley/路地 041

堅田の路地

堅田は琵琶湖畔の路地の町。湖と家々を路地がつなぎます。写真の路地も湖畔から歩いてきて撮影したもの。「貼紙禁止」の文字が効いていますね。

堅田(滋賀県大津市)の写真 路地 「堅田の路地」
■撮影地:滋賀県大津市本堅田2丁目

Photograph of Honkatata,Otsu,Shiga,Japan alley
2010.01.09 10:12″An alley at Honkatata”

蓮如上人と、毛糸の帽子(滋賀県大津市・泉福寺から) ~Imakatata/今堅田 086(2)

蓮如上人と、毛糸の帽子

蓮如上人像の”頭”が気になって近づいたら・・・。 ( 写真を御覧下さい。 )
毛糸の帽子の色が銅像の色と合っていて、すごくいいですね。

今堅田(いまかたた)の町には、きっと優しい人が住んでいるのでしょう。
「蓮如さん、お寒いやろうね。これでもかぶって。」
そんな風に想像したら、昔話の”かさこ地蔵”の物語を思いだしました。

堅田は町を挙げて蓮如を匿った歴史があり、蓮如に対する信仰の厚い土地です。


蓮如上人といえば、室町時代の僧侶。浄土真宗の中興の祖です。
親鸞の直系として生まれながら数々の迫害を受け、
京都から脱出して堅田に滞在した時期がありました(1465年~)。

比叡山延暦寺の衆徒が堅田を攻撃しますが、堅田は町を挙げて蓮如を守り抜きます。
1468年、堅田大責(かたたおおぜめ)と呼ばれる歴史上の事件です。
この年、蓮如は比叡山に近い堅田の地をあきらめ、北陸へと向かうことになります。


堅田(滋賀県大津市)の写真 今堅田 泉福寺4 「蓮如上人と、毛糸の帽子」
2010.01.09 15:09

■撮影地:泉福寺(真宗大谷派)■拝観:境内自由
■住所:滋賀県大津市今堅田1丁目5-29■TEL: 077-573-1757

泉福寺と比叡山の位置関係⇒こちら(Google mapへのリンク)


This is the statue of Rennyo in Senpuku-ji temple in Katata,Japan.
”Rennyo (蓮如) (1415-1499) was the 8th Monshu, or head-priest, of the Jōdo Shinshū sect of Buddhism, and descendant of founder Shinran”. http://en.wikipedia.org/wiki/Rennyo
Katata has the history which protected Rennyo, and is a religious town to Rennyo.

Enryaku-ji temple considered that Rennyo and his temple Hongan-ji (in Kyoto) the enemies of the Buddha, and Enryaku-ji temple oppressed them. Hongan-ji  temple was destroyed and he led the life as a fugitive.He stayed at  Honpuku-ji temple in Honkatata and waited for the time of revival in 1467. Enryaku-ji temple attacked Katata with the large force in 1468 (it is called Katata Ozeme). He gave up making Katata into headquarters. It is because Katata was close to Enryaku-ji temple.In April, 1471, he went to Echizen Yosizaki which was a still more distant place from Kyoto.

Photograph of Imakatata,Otsu,Shiga,Japan  Imakatata Senpuku-ji temple 4
2010.01.09 15:09 ”The statue of Rennyo with green wool hat”