江戸時代の堅田と堅田藩、大庄屋と居初氏について

文政8年(1825)ごろの本堅田村の状態(堅田藩陣屋跡の案内板より)
堅田藩の初代藩主は堀田正高(まさたか)という人物で、その父は徳川綱吉に仕えた大老・堀田正俊(まさとし)でした。

貞享元年(1684年)8月28日、正俊は江戸城中で稲葉正休に暗殺されます三男だった正高は、父・正俊の遺領のうち下野佐野(栃木県)1万石をもらいますが、元禄11年(1698年)3月7日、所領を近江堅田(滋賀県)に移され、堅田に陣屋を設置しました。これが堅田藩の始まりです。

第6代藩主・堀田正敦(まさあつ)は、若年寄として松平定信の寛政の改革を助け、仙台藩主が死去したときは若い次期藩主の後見役となって仙台藩の藩政を担うなど、とても功績の大きかった人物です。
正敦の功績で、文化3年(1806年)に堅田藩は3,000石を加増され1万3,000石になりました。さらに文政8年(1825年)4月には、堅田藩は「陣屋」(無城大名)から「城主格」(お城はないけど城主に準ずる待遇)に一段階昇格します。

しかし、文政9年(1826年)10月10日、正敦は(初代堅田藩主・正高の旧領である)下野佐野へ所領を移されて(呼び戻されて)、堅田藩は廃藩となりました。もっとも、堅田の所領のうち滋賀郡領は、佐野藩の飛び地として幕末期まで受け継がれました。

出典(当ブログ):宮ノ切と堅田陣屋 ~Honkatata/本堅田 115(2)


堅田陣屋のあった時代(江戸時代)の掘割
堅田藩とは言っても、天守閣のある立派な城を作ることが許されたわけではありません。城の無い大名(無城大名)なので、役所があった場所は「陣屋」と呼ばれます。堅田藩陣屋があったのは、浮御堂に近い場所でした。

堅田藩の陣屋跡は、大津市本堅田1丁目の伊豆神社近くにあります。2009年に地元の方の寄付で陣屋跡の看板が立てられました。しかし建物や門などは何も残っておらず、往時をしのぶものは陣屋があった当時の舟入り(写真)くらいでしょうか。

出典(当ブログ):本堅田(滋賀県大津市)の、静かなお正月の風景(5) 堅田藩陣屋跡から ~Honkatata/本堅田 332-334



陣屋があった当時から存在すると伝わる、伊豆神社の掘割です。この写真の方向へ歩いて右折すると浮御堂、左折すると陣屋跡方面(琵琶湖)へ続いています。

出典(当ブログ):伊豆神社の掘割~古絵図で見る堅田(3)


宮ノ切の地蔵堂と石段と柿の木
堅田港の近く、本堅田1丁目(2丁目との境界付近)には、環濠のなごりが水路としてわずかに残っています。「宮ノ切」は堅田陣屋の一部だったといわれている場所です。

室町時代の堅田には「宮座」と呼ばれる自治組織が設けられ、「きり」が築かれました。堅田の宮座は、地侍である殿原衆(とのばらしゅう)によって運営されました。「宮ノ切」が最初に築かれ、さらに「東ノ切」「西ノ切」「今堅田切」へと発展し、これら4つで堅田が形成されました。

出典(当ブログ):宮ノ切と堅田陣屋 ~Honkatata/本堅田 115(2)



宮ノ切=伊豆神社エリア、東ノ切=満月寺(浮御堂)エリア、西ノ切=寿寧寺・神田神社エリア、今堅田切=伊豆神田神社エリアに相当します。(色のついた範囲をクリックすると解説と写真が出ます。)


茶室・天然図画亭(居初氏庭園)
さきほど「宮ノ切」の説明の中で、「堅田の宮座は、地侍である殿原衆(とのばらしゅう)によって運営されました」と書きましたが、この殿原衆の筆頭格居初(いそめ)氏です。その庭園は天然図画亭と呼ばれ、国指定の名勝になっています。

ちなみに現在の居初家は本堅田の琵琶湖畔にあり(ご当主のお話だと中世の頃は伊豆神社の近くにあったそうです)、湖畔から立派なお茶室の屋根が見えます(写真)。

中世の堅田の歴史を紐解くと、下鴨神社と延暦寺の権威を背景に、湖上関の通行税の徴収権などの湖上特権を確立していった歴史があります。下鴨神社の御厨となって約90年後の1182年、伊豆神社に宮座が置かれ、堅田は殿原衆を中心に惣の運営を始めます。大阪の堺と並ぶ、中世の自由都市の始まりでした。

出典(当ブログ):大阪の堺と並ぶ自由都市だった港町、堅田。殿原衆三家の一つ、居初氏の邸宅にて(前編) ~Honkatata/本堅田 477-484


ちなみに堅田のことを湖族(こぞく)湖族の郷(こぞくのさと)というのは、中世の居初氏から来ているといっても過言ではありません。湖族とは吉川英治氏の「新・平家物語」に出てくる言葉で、中世に琵琶湖の水運を支配した堅田衆のことを言います。

では中世以降の居初氏はどうなっていったのか。筆者にとっては個人的に気になるテーマで、以前当ブログの記事として書いたことがありました(「大津百町」の中の堅田~かつて大津旧市街に上堅田町・下堅田町と呼ばれた町がありました)。

居初邸外観

▼中世以降の居初氏について

1586年(天正14年)、豊臣秀吉坂本城(明智光秀の居城)を廃城とし、現在の大津港(浜大津)の辺りに大津城を築城します。その際に、「大津百艘船」と呼ばれる船株仲間制度を作り、坂本堅田などの船持に湖上水運の特権を与えました。

筆者が初めて堅田を訪ねた2006年以降、”大津百艘船制度の下で居初氏の影響力は低下していった”というニュアンスの文章を見ることがほとんどだった記憶があります(たとえば居初邸を見学したときのパンフレットなど)。ところが、「居初家文書の世界」(大津市歴史博物館ミニ企画展・2013年9月開催)の展示解説のなかに興味深いものがいくつかありました。

居初家に伝わる豊臣秀吉の朱印状(天正19年11月3日)には、朝妻(米原市)・船木からの材木や薪などの輸送は大津百艘船で、蔵米はその他の浦舟で輸送するように命じています。他の資料とつき合わせると、琵琶湖の公式な水運ルートとして、大津百艘船ルートの他に、堅田ルートが認められていたことが分かってきました。

また、江戸時代(明和3年・1766年)の「船仲間諸用留帳」からは、本堅田の居初家簗瀬家・竹内家、今堅田の竹内家の四家で船道仲間を結成していたことや、堅田浦が幕府と各浦の仲介役を果たしていたことが伺えます。

堅田や歴史博物館に通って調べていくと、江戸時代の居初氏は「船道郷士」の一家として別格の扱いを受けた存在であることが分かってきました。「船頭郷士」は、他の郷士身分の者たち(「堅田郷士」とは区別された存在でした。堅田郷士や村人とは、時に村の運営や水運などをめぐって争いになることもあったようです。

出典:「居初家文書の世界」展示解説(大津市歴史博物館ミニ企画展・2013年9月)
出典(当ブログ):「大津百町」の中の堅田~かつて大津旧市街に上堅田町・下堅田町と呼ばれた町がありました

居初邸と、古い蔵

居初邸の調度品
(2012年に本堅田の居初邸で撮影させていただいたものです。居初の文字が見えます。)

▼堅田藩の大庄屋について

江戸時代、庄屋とは別に「大庄屋(おおじょうや)」と呼ばれる人たちがいました。藩の決裁権の一部を委ねられた民間人(農民)で、近江国堅田藩の場合米5俵(2石)の役料をもらい、苗字・帯刀を許されていました。藩と村(庄屋)をつなぐ役割を持ち、郡奉行への願書・届書などの窓口となっていたことが、最近の研究で分かってきました。支配系統でいうと、江戸幕府→地方役人→大庄屋→庄屋(関東では名主)→村人という図になります。

堅田藩の大庄屋は、享保19年(1734)6名で成立しています。
その6名とは・・・
・近江国滋賀郡本堅田村 居初八郎右衛門・藤田源右衛門・木村伝右衛門
・近江国滋賀郡大野村 吉田伊兵衛
・近江国高島郡北仰村 橋下安兵衛
・近江国高島郡浜分村 岩佐太郎助
(出典:「江戸時代の堅田と堅田藩」第二回報告会レジュメ、東谷智先生担当分)

現在の地名を調べてみると、本堅田村は大津市本堅田。大野村は大津市真野。北仰村と浜分村は高島市今津町です。そして堅田藩の範囲は、堅田周辺の真野、衣川、千野、伊香立から、堅田以北の葛川、南小松、北比良、今津まで広範囲に渡ります。

6人の大庄屋の中には、「近江国滋賀郡本堅田村 居初八郎右衛門」の名前がありました。中世の堅田を治めた地侍、「殿原衆」(とのばらしゅう)の筆頭格が居初(いそめ)氏です。ちなみに居初さんは現在も本堅田にお住まいです。

大庄屋:江戸時代の村役人の一種で,惣庄屋,割元などとも。加賀金沢藩の十村(とむら)は著名。数ヵ村以上の庄屋・名主の上に立ち農民の最高位。苗字帯刀,扶持米給与等高い格式を与えられていた。
コトバンク:大庄屋(百科事典マイペディアの解説)

大庄屋:江戸時代の最上位の村役人。通常は、村役人の支配する村を十数か村から数十か村統轄する者をいい、その支配の範囲は、村高にして7000~8000石から1万4000~1万5000石であったという。身分は農民であるが、旧来は武士の由緒をもつ者が多く、その地方では格式の高い家とみられた。また支配者により、苗字(みょうじ)帯刀などの格式を許され、士分として扱われた場合もある。また収入として組下の村から給米を徴収したり、領主から切米(きりまい)や扶持(ふち)を支給される場合もあった。その名称は地域によって異なり、惣(そう)庄屋、惣代名主、割元(わりもと)、用元、検断、大肝煎(おおきもいり)、十村(とむら)、手永(てなが)などと称された。その職務の内容も地域によって差異があるが、代官、郡代、郡奉行(こおりぶぎょう)らの地方(じかた)役人の指揮下で、組下の庄屋、名主を統轄し、法令の伝達、年貢、夫役(ぶやく)の割付け、村々の訴訟の調整にあたった。初期には、天領、大名領にともに置かれたが、天領では正徳(しょうとく)年間(1711~16)に、不正が多いと廃止された。
コトバンク:大庄屋(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

ツツジの頃、天然図画亭にて1

▼堅田藩の大庄屋の一人、居初八郎右衛門について

居初八郎右衛門は17代当主にあたります。琵琶湖博物館の「居初家文書」のデータベースの中に名前がありました。(ちなみに現在の居初さんは29代目です。)

33 木徳堅田郷士願■■■■書付(郷士免許・聟入祝儀)
差出(作成):竹内荘三郎登和(花押)、辻平右衛門用信(花押)、木村源右衛門宗雄(花押)、猪飼甚右衛門勝義(花押)、居初八郎右衛門豊儀(花押)

琵琶湖博物館 歴史資料データベース » 150 居初家文書Ⅱ:77点

↓こちらは船道郷士4名の連名ですね。

170 堅田浦由緒申上候覚 年月日:享保12年10月   西暦:1727
差出(作成):竹内茂左衛門、居初八郎右衛門、竹内傳右衛門、簗瀬四郎兵衛


居初邸との蔵

▼堅田藩の大庄屋設置の歴史

堅田藩に大庄屋が設置されたのは、享保19年(1734)3月でした。享保と聞くと「享保の改革」を連想される方が多いのではないかと思います。8代将軍徳川吉宗による享保の改革は、有名なところをひろってみても、目安箱の設置が享保6年(1721)で、公事方御定書の制定が寛保2年(1742) と、ざっと見ても20年以上にわたる改革でした。この間、享保17年(1732)には享保の大飢饉が起こっています。大庄屋が設置されたのは、その約2年後です。

当時の幕府の最優先課題だった財政再建の一環として、コスト削減を行うために、行政の仕事の一部を民間委託する流れが出てくるのは自然なことでした。「物入無之様」(幕府の物入り=経費がかからないように)大庄屋が設置されたことは、2016/1/31の報告会(「江戸時代の堅田と堅田藩」第二回報告会)で紹介された古文書からも伺うことができます。

では、堅田以外の藩では大庄屋がいつごろ設置されたのか。大庄屋の「廃止」について、「コトバンク」に興味深い記述があります。堅田藩に大庄屋が設置される以前の正徳3年(1713)、幕府直轄地(いわゆる天領)に対して大庄屋廃止令が出され、廃止されたというのです。

初期には、天領、大名領にともに置かれたが、天領では正徳(しょうとく)年間(1711~16)に、不正が多いと廃止された。
コトバンク(大庄屋:日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

幕領では,1713年(正徳3)諸国代官への通達(全13条)の11条において,大庄屋,割元,惣代などを廃止した。その理由は,彼らへの多額の給米が村の負担となること,彼らの専断により百姓が難儀する場合が多いこと,の2点にあった。
コトバンク(大庄屋:世界大百科事典 第2版の解説)

少なくとも1713年以前に、各地に大庄屋制度があったことが分かります。そして幕府直轄地(天領)に対する大庄屋廃止令の約20年後に、享保の大飢饉を経て、大名領の堅田藩で大庄屋が設置されたというのは興味深い事実です。

一連の流れをまとめてみました。
・近世初め~元徳11年(1698) 本堅田村が幕府領になる
・元徳11年(1698) 堅田藩成立(堀田家)
・正徳3年(1713)  幕府直轄地の大庄屋廃止
・享保6年(1721)  目安箱の設置(享保の改革)
・享保17年(1732) 享保の大飢饉
・享保19年(1734)  堅田藩に大庄屋設置
・寛保2年(1742)  公事方御定書の制定(享保の改革)

先ほど、大庄屋の設置は江戸幕府の財政再建の一環として設置されたと書きましたが、統治の仕組みを考える上で、地理的な要因も考慮にいれなければなりません。堅田藩一つとってみても、当時の滋賀郡と高島郡(現在の大津市北部から高島市南部)までと、広範囲に渡ります。たとえば郡代官に伺いを立てにいくのに、高島郡の庄屋が本堅田まで出向くのは、かなりの時間と手間が生じます。2016/1/31の報告会(東谷先生)によれば、領内各地に大庄屋を置き、ちょっとした届出の受領や提出は大庄屋の決済に任せてしまおうというのは、村人にとっても利便性の高いものでした。

堅田藩は文政9年(1826年)10月10日、第6代藩主・堀田正敦(まさあつ)が、初代堅田藩主の旧領である下野佐野へ所領を移されて(呼び戻されて)廃藩となりました。もっとも、堅田の所領のうち滋賀郡領は、佐野藩の飛び地として幕末期まで受け継がれています。佐野藩にも大庄屋が存在したということですが、居初氏をはじめとする堅田藩の大庄屋がどうなったのか、そのあたりのところまではよく分かりませんでした。


▼堅田藩の領地

締めくくりに、堅田藩が治めていた地域を表記するとともに、地図にしてみました。なお『新修大津市史』によれば、今堅田は、元徳11年(1698年・堅田藩の成立した年)に三上藩の領地となり、天保4年(1833)には三上藩領から天領となったことを書き添えておきます。

○滋賀郡
赤塚村・・・滋賀県大津市滋賀里
千野村・・・大津市千野(ちの)
衣川村・・・大津市衣川(きぬがわ)
本堅田村・・・大津市本堅田(ほんかたた)
西猟師・・・大津市本堅田(郊外)
東猟師・・・大津市本堅田(郊外)
中村(真野)・・・大津市真野(まの)
沢村(真野)・・・大津市真野
谷口村・・・大津市真野谷口町(まのたにぐち)
普門村・・・大津市真野普門(まのふもん)
大野村・・・大津市真野大野(まのおおの)
下在地村(伊香立)・・・大津市伊香立下在地町(いかだち しもざいじ)
向在地村(伊香立)・・・大津市伊香立向在地町(いかだち むかいざいじ)
坂下村(葛川)・・・大津市葛川坂下町(かつらがわ さかした)
坂下村新田・・・大津市葛川坂下町
木戸口村(葛川)・・・大津市葛川木戸口町(かつらがわ きどぐち)
中村(葛川)・・・大津市葛川中村町
町居村(葛川)・・・大津市葛川町居町(かつらがわ まちい)
貫井村(葛川)・・・大津市葛川貫井町(かつらがわ ぬくい)
細川村(葛川)・・・大津市葛川細川町
北比良村・・・大津市北比良
南小松村・・・大津市南小松

○高島郡
鴨村・・・高島市鴨(かも)
下小川村・・・高島市安曇川町下小川(しもおがわ)
下古賀村・・・高島市安曇川町下古賀(しもこが)
太田村・・・高島市新旭町太田
浜分村・・・高島市今津町浜分(はまぶん)
北仰村・・・高島市今津町北仰(きとげ)
岸脇村・・・高島市今津町岸脇
桂村・・・高島市今津町桂
酒波村・・・高島市今津町酒波(さなみ)
新保村・・・高島市マキノ町新保

この記事は2016年2月に当ブログで連載した記事をまとめ直したものです。筆者が10年間堅田で撮影し調べてきたことの備忘録として記しています。地元の皆様や堅田に関心のある方のご参考になれば幸いです。

初出
http://katata.info/2016/02/katata-ojoya-1/
http://katata.info/2016/02/katata-ojoya-2/
http://katata.info/2016/02/katata-ojoya-3/

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