堅田の町について

湖族の郷資料館前到着

堅田は滋賀県大津市北部に位置する琵琶湖畔の町です。
滋賀県大津市本堅田(ほんかたた)、今堅田(いまかたた)、堅田(かたた)に分かれます。

南北に西近江路が通り、西は京都の大原で、東は琵琶湖、しかも琵琶湖の最狭部(幅が最も狭いところ)にあるため、古くから交通の要所でした。現在は対岸の守山市との間に琵琶湖大橋があります。

平安時代(1090年)、堅田は京都の下鴨神社の御厨(みくりや)となりました。続いて堅田とその周辺地域に比叡山延暦寺の荘園(堅田荘)が成立します。下鴨神社と延暦寺の権威を背景に、堅田は湖上関の通行税の徴収権などの湖上特権を獲得し、中世には琵琶湖最大の自治都市を築いたと伝えられています。琵琶湖といえば堅田、堅田といえば鮒と言う位、町は栄え鮒は珍重されたといいます。

この歴史を現代にも伝えようと、1990年から写真の献饌供御人行列が行われています。1994年からは堅田町内だけでなく下鴨神社へも巡行する現在のスタイルになりました。

中世の時代に堅田衆(湖族)は水先案内人、運送業、漁業、造船業などで生計を立てたと伝えられています。現在も堅田漁港造船所(堅田の桑野造船、本堅田の松井造船所、今堅田の杢兵衛造船所)があり、本堅田1丁目の浮御堂周辺と今堅田1丁目には中世の面影を残す町並みが見られます。また、中世の堅田の指導者だった殿原衆の筆頭格「居初氏」の居宅と庭園(「天然図画亭」、国指定名勝)が琵琶湖畔に現存しています。

吉川英治さんが歴史小説「新・平家物語」の中で堅田衆を「湖族」と呼んだことから、湖族の名称が定着しました。海賊のような響きなので地元の方の反応はさまざまのようですが、水軍ではありませんので、念のため書き添えておきます。(2015.08)

目次
1.堅田の町について
1-1.堅田の地理と特徴、人物
1-2.堅田の歴史年表・今は見られない堅田の風景と古写真(リンク集)
1-3.湖族の郷資料館
1-4.関連リンク集

2.本堅田の寺社(伊豆神社・浮御堂・神田神社・光徳寺・祥瑞寺・本福寺・都久生須麻神社・妙盛寺・寿寧寺・福聚院・妙法寺)
3.居初氏庭園と堅田教会、堅田の句碑・文学碑・顕彰碑、芭蕉の句碑
4.出島灯台と今堅田の寺社(伊豆神田神社・海蔵寺・泉福寺・野神神社)
5.江戸時代の堅田と堅田藩、大庄屋と居初氏について

 

1-1.堅田の地理と特徴、人物

住所 滋賀県大津市本堅田・滋賀県大津市今堅田・滋賀県大津市堅田
地理 滋賀県大津市北部にある琵琶湖畔の町堅田駅を境に山側湖側の東西エリアに分かれる。

山側(西) 本堅田6丁目から衣川(きぬがわ)、真野、真野普門、仰木、伊香立と牧歌的な田園風景が広がる。堅田周辺は滋賀県の湖西地方に位置し、美しい里山で知られる。ちなみに今森光彦さんの写真集「里山」の主な舞台となったのが仰木。
堅田駅の西側に位置する春日山は古墳の宝庫で、春日山古墳群(国史跡)がある。里山を生かした県立の公園「春日山公園」になっている。

湖側(東) 本堅田1~2丁目を中心に、古くからのゆったりとした町並みが残る。
近江八景のひとつ「堅田の落雁」で有名な浮御堂も、このエリア。

・浮御堂の徒歩30分圏 伊豆神社、神田神社、光徳寺、祥瑞寺、本福寺など8つの寺社。
堅田本町周辺…昭和の雰囲気の残る商店街と、ヴォーリズ堅田教会
・浜通り商店街(堅田漁港堅田港の間)…水運で栄えた堅田の有力者、居初氏(いそめし)の邸宅(居初邸)と庭園(天然図画亭、てんねんずえてい)。居初邸のすぐ傍に湖岸の遊歩道あり。
本堅田4丁目から今堅田1丁目…琵琶湖の内湖である堅田内湖があり、本堅田では淡水真珠の養殖が行われている。
今堅田1丁目…造船所の残る水辺のまちで、瀬戸内海の水辺の町を思わせるような町並みと、琵琶湖大橋周辺の繁華街を併せ持つ。明治期に建てられた木製の灯台、今堅田出島灯台(でけじまとうだい)がある。

特徴 近年は京阪神のベットタウンとしてマンションや住宅街が立ち並ぶようになっているが、京都や鎌倉に匹敵するような古い町並み・寺・神社は健在。なにより素晴らしいのは、そこで普通に暮らしが営まれていること。消えつつある日本、なのかもしれません。

人物 蓮如上人、一休和尚、松尾芭蕉に縁が深い。「堅田源兵衛の首」「おとせの浜の伝承」「匂当内侍(こうとうないし、新田義貞の妻)の物語」など、知られていない話も多い。「淡海節」の志賀廼家淡海、作詞家の奥野椰子夫は本堅田出身。

 

1-2.堅田の歴史年表

<平安時代>
伊豆神社創建、浮御堂建立

1090年  京都下鴨神社の御厨(みくりや)となる
※堅田御厨の場合、毎日「御膳料」としての鮮魚を献上する代わりに国司によって所役を免除されていた

<南北朝時代>
1338年  匂当内侍(こうとうないし・新田義貞の妻)今堅田で入水したと伝えられる

<室町時代>
1415年  一休さん、本堅田の祥瑞寺で修行
1465年  迫害を受けた蓮如 (浄土真宗)が堅田の本福寺に移る
1468年  延暦寺衆徒が堅田の真宗門徒を攻撃(堅田大責・かたたおおぜめ

<江戸時代>
1680年  本堅田の天然図画庭園(居初氏庭園)ができる
1685年  松尾芭蕉が堅田で観月会(堅田十六夜の辨)を開く

<明治時代>
1889年
  衣川(きぬがわ)・本堅田・今堅田が合併して堅田村となる

<昭和時代>
1926年  東洋紡が堅田に工場建設
1934年  室戸台風で浮御堂倒壊
1955年  堅田町と真野・伊香立・仰木・葛川の五町村合併
1964年  琵琶湖大橋が開通
1967年  堅田町大津市が合併
1974年  JR湖西線 開通

 

今は見られない堅田の風景と古写真(リンク集)

秋の空と田んぼと観覧車(イーゴス108)
今堅田にあった巨大観覧車・イーゴス108の写真を掲載しています(バックナンバーはこちら)⇒びわ湖タワー跡観覧車(イーゴス108)、2013年9月より解体開始。元世界一の高さの観覧車、ベトナムで復活へ。

堅田の古い写真について(後編)&本の表紙画像のブログ掲載について考える
今回は、大津市歴史博物館HPに掲載されている堅田の古写真をご紹介します。※以下のページから、堅田に関する写真を抜粋してご紹介しています。http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/shashin/index.html※タイトルをクリックすると大津市歴史博物館HPへジャンプします。□堅田町役場(明治時代)□堅田町役場(昭和20年代)□...
堅田の古い写真について(前編)&居初家文書の世界(ミニ企画展)開催:2013/1...
今年の5月、堅田在住の方から、1969年頃の堅田を撮影した写真集を頂きました。今日はその写真集のことを書こうと思います。1969年といえば、江若鉄道の廃止直前の頃です。厚い表紙を開いてページをめくっていくと、当時の堅田駅の様子が収められていました。鉄道員さんが大きな「輪」を持った写真もありました。タブレッ...

1-3.湖族の郷資料館

町屋がそのまま資料館に

湖族の郷資料館

所在地 〒520-0242 滋賀県大津市本堅田1丁目21-27
電話番号 077-574-1685
入館料 大人100円

浮御堂の近くにある湖族の郷資料館では、古代から中世、近代に至る堅田の変遷、芭蕉や門人たち、志賀廼家淡海(※)といったゆかりの人物、 堅田を題材にした文学作品を紹介しています。民具の展示や、郷土品販売コーナーもあります。

志賀廼家淡海

♪舟を曳きあげ漁師は帰る あとに残るは櫓と櫂
波の音 ヨイショコショ 浜の松風
と歌われる「淡海節」は、明治・大正・昭和の三代にわたり一世を風靡した喜劇役者志賀廼家淡海が作った曲です。

淡海は明治16年(1883)本堅田に生まれ、本名は田辺耕治。父親は高名な浄瑠璃語りでしたが、 淡海が幼少のころ出奔します。淡海は、青年時代、江州音頭で頭角を表し、18歳のとき芸界に入るため堅田をあとにします。以降、 浮沈を繰り返しますが、故郷を偲んで作った「淡海節」が大ヒットするに至り脚光を浴び、喜劇界の頂点に登りつめました。 晩年は親鸞や蓮如を題材にした宗教劇で人気を博しました。昭和31年、巡業先の鹿児島の舞台で死去。享年73歳。 堅田駅前の交番横に淡海の顕彰碑があります。

◆「淡海節」について

大道町の夕暮れ、「淡海節」の明かりが灯る夜 (淡海節 歌詞とYouTube動画付) ...
琵琶湖・浮御堂へ続く町並みは、大道町と呼ばれ、暮らしの中に町屋が残っています。路地が多く、路地をたとれば琵琶湖に通じるのが、堅田という町です。夕暮れ時の一瞬を、大道町(滋賀県大津市本堅田1丁目)にて撮影しました。大道町にある湖族の郷資料館の前に灯っていたのは、堅田ゆかりの「淡海節」が書かれた明かり...

丸子船の模型
湖族の郷資料館2階に展示されている丸子船の模型です。
⇒この続きは・・・丸子船の模型を、町屋の二階で眺める ~Honkatata/本堅田 381-382でどうぞ

◆湖族の郷資料館のバックナンバー一覧(展示品など)
http://katata.info/tag/kozokunosato_museum/


1-4.関連リンク集(堅田の町のご紹介)

堅田学区自治連ホームページ
地域の行事案内 堅田の古い写真 湖族まつりの写真

江若バス堅田町内循環線
浮御堂、東洋紡方面(堅田出町) の時刻表

堅田の特産品(大津北商工会ホームページ)
●酒・装飾品: 淡水真珠、清酒・浪の音
●御菓子: いちご大福、らくがん、一休餅
●川魚: 鯖寿し、あゆ巻


About Katata

Katata is an old lakeside town located in the west in Lake Biwa, the largest lake in Japan,and the north in Otsu, Shiga,Japan.Katata is in the place where the width of Lake Biwa is the narrowest, so it is a key point of traffic for many years. There is Biwako-ohashi bridge among Moriyama on the opposite shore now.

The biggest free city in Lake Biwa was built by people of Katata called the Katatasyu (Kozoku) to the medieval time. It is told that the Kozoku made its living by an usher, transportation business, a fishing, the shipbuilding industry, etc.

Katata was loved by the literary man including Matsuo Basho, and the literary monument is built in here and there  of the town . It is a beautiful town where rows of houses old even now remain.

As for Katata, Ukimido(浮御堂) is known as one of Omi Hakkei (近江八景)or Eight Views of Omi made famous by Hiroshige’s picturesque woodblock prints. Ukimido is a temple which appears on Lake Biwa, crosses a small bridge and can visit.

Two years before calling on Honkatata for the first time, I was surprised at the rows of houses carried out calmly that it could be old and new balance and the numerousness of too much temples and shrines. There were also nine temples and shrines including Ukimido within the limits of only 400m from Ukimido. which — although — it was valued from local you and had sighed in the life.If you walk along Katata (especially Honkatata), it understands well, but very automatically, people who live there make an offering thing a night-light and a monument, prune a hedge, they build the house suitable for rows of houses, and are living.

I without a hometown decided Katata to be my hometown, rode on Kosei Line, and it has gone to sometimes take a photograph. If Katata’s goodness reaches people which were able to see the photograph, there is no such delightful thing like this.

In Katata, the local adhesion type Art Festival by the young artist “Kozokunosato Art Project” is once opened by the year.It participates in the guide tour in December (the 3rd ), 2007, and from people which met, I will attach that I had the cause which announces a photograph given here, and will make it into gratitude.(2008.01)