竹生島をめぐる冒険(2) 徳川家康、秀吉の威光を琵琶湖の島に封じ込める―豊国廟唐門の移築

ちょうど今、NHKの大河ドラマ『真田丸』で大坂冬の陣の直前を放送しているが、大坂冬の陣が起きたのは慶長19年 (1614) の冬である。

同じ年の7月には、大坂の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件が起きている。

豊臣秀吉の死後、家康が豊臣家の財力をなんとか削ごうとして、秀吉の供養と称して秀頼に寺社仏閣への寄進を勧めたのは有名な話だ。秀頼は京都の神社に数々の寄進を行ったので、京の町衆に人気があったという。

実は方広寺鐘銘事件の約10年前、慶長7年~8年(1602-1603)に、秀頼は秀吉の霊廟(豊国廟)の門を琵琶湖に浮かぶ竹生島に寄進している。この門は極楽門(唐門)と呼ばれ、もとは大坂城極楽橋の門だった。現在は国宝に指定されている。

豊国廟は当時、京都の東山にあった。秀頼はなぜ、湖上の島に父親の霊廟の門を移築しなければならなかったのか。

 

豊国廟極楽門(唐門)が竹生島に移築された1603年は、江戸幕府が開かれた年である。竹生島へは秀頼が寄進したとされるが、資料を見る限り、実質的に家康が決めた話のようである。

豊国廟の僧侶だった神龍院梵舜の日記『舜旧記』の中に、慶長7年(1602年)6月11日、「今日ヨリ豊国極楽門、内府(注:内大臣=末期豊臣政権の五大老だった家康)ヨリ竹生嶋へ依寄進、壊始」と出てくるのだ。

関ヶ原の戦いで天下人となった家康の意向を受けて、秀頼は豊国廟を縮小するしかなかった。家康の意向で極楽門(唐門)の寄進は決まっていたのである。

 

豊臣家のシンボル、豊国廟極楽門(唐門)。

当時の京都の人が「豊臣」と聞いて連想したのが、京都の東山にあった豊国廟だったことは想像に難くない。そして、豊国廟のシンボルが極楽門(唐門)だった。豊国廟極楽門はもとは大坂城極楽橋の門で、豊国廟に移築されたと言われている。

大阪城も豊国廟も、豊臣家の栄光のシンボルである。天下人としての徳川家の地位を世の中に示したい家康にとっては、京都にあってもらっては困る門だった。

かといって、武力に訴えて極楽門を壊すわけにもいかない。あくまでも権力が平和裏に豊臣から徳川へ移ったと示す必要があった。それには秀頼が極楽門を、京都の外へ寄進するが望ましい。

そして竹生島は、秀頼の両親にとって特別な島だった。

秀頼の母である淀君(茶々)は、湖北を治めた戦国武将・浅井長政の娘である。そして浅井氏が信仰したのが都久生須麻神社(竹生島神社)だった。竹生島は、山間にある浅井氏の小谷城からもよく見えたという。

ちなみに都久生須麻神社の祭神が、浅井姫命⇒ツクブスマ(女神)⇒弁才天と変遷してきたのは前回書いた通りである。

そして秀頼の父である秀吉が、初めて城持ちとなった地が長浜である。浅井氏滅亡後に小谷から琵琶湖畔へ城下町が移るが、それが長浜だった。竹生島は長浜の管轄下にあった。ちなみに長浜城からも、竹生島はよく見える。

当時の竹生島は、永禄元年(1558年)に大火に遭い、宝厳寺伽藍の復興が待ち望まれていた。秀頼にとって、そして淀君にとっても、竹生島は納得できる移築先だったのだろう。こうして竹生島に移築されたのが、現在の宝厳寺唐門である。

 

Wikipedia(宝厳寺)によれば、唐門と同時に竹生島へ寄進されたのが、「渡廊、観音堂、ならびに弁才天社(現・都久夫須麻神社本殿)」で、「都久夫須麻神社本殿は豊国廟あるいは伏見城の日暮御殿を移築したものとされる」とある。渡廊、観音堂、都久夫須麻神社本殿はすべて重要文化財となっている。

渡廊は宝厳寺観音堂と都久夫須麻神社を結ぶ屋根付廊下で、宝厳寺ホームページによれば「朝鮮出兵のおりに秀吉公のご座船として作られた日本丸の船櫓(ふなやぐら)を利用して作られた」ことから「舟廊下」の名がついたとある。

この寄進に際して、秀頼から宝厳寺の普請奉行を命じられたのが、秀吉の家臣で秀頼の後見役である片桐且元だった。宝厳寺の境内には、樹齢約400年という片桐且元お手植えのモチの木が残っている。

大坂城と豊国廟を思い起こす唐門を湖上の島に封じ込めてしまうことで、豊臣家の威光を平和裏に隠したい家康の目的は達成された。

その後家康は、豊臣家のシンボルを徹底的に破壊した。豊国廟も、大阪城(大坂城)も、当時の姿をとどめてはいない。

しかし、竹生島が湖上の島だったことで、唐門は破壊されずに済んだ。秀吉が建てた大坂城は、奇しくも竹生島に移した唐門だけが残ったのである。

竹生島に託した秀頼の決断は、間違ってはいなかったのだろう。唐門は後世に伝えられ、2016年現在、平成の大修理の真っ最中である。外観が撮影できないため、唐門の扉に刻まれた牡丹の彫刻をご紹介しておきます。

後日談:豊国廟の夢の跡。

豊国廟があったのは京都の東山(現在の京都市東山区)で、ちょうど清水寺の南側に位置する。豊国廟付近には京都女子大学があり、昨年から何度か付近を訪ねる機会があったにもかかわらず、豊国廟の存在に気がつかなかった。

2016年初夏に竹生島の撮影をした後、筆者の頭の中で「竹生島⇒宝厳寺⇒秀頼の寄進⇒豊国廟」と連想がつくようになったらしく、京都の地図を見て、京都女子大に続く坂道(通称・おんな坂)の先に豊国廟があることに気がついた。

結論から言うと、「おんな坂」は、もともと豊国廟の参道だったのである。「おんな坂」はなんとも不思議な道で、参道の石灯籠は大きくて見事だし、途中で道をふさぐかのように急に新日吉神宮が現われるし、あの道は一体何だろうと気になっていた。

秀吉は西方浄土の考え方に基づいて、西本願寺の東に豊国廟を造ったと言われている。豊国廟-豊国神社-西本願寺は直線状に位置するよう造られている。

しかし、家康の意向によって豊国廟と豊国神社は破棄された。他にも様々な手段で、家康は「豊国廟-豊国神社-西本願寺」のラインそのものを、徹底的に破壊したという考察がある。

この話を図解と写真入りで分かりやすく解説されている方がおられたので、リンクを貼っておきます。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kazu_san/hyaku_taiko.htm

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