伊吹の荒ぶる神13(北国街道米原宿から中山道番場宿へ、鎌刃城跡に登り蓮華寺を訪ねる)~近江山河抄の舞台を歩く(78)

『近江山河抄の舞台を歩く』は、『かくれ里』で知られる随筆家・故白洲正子さんの紀行文『近江山河抄』に登場する場所を、写真と現在の情報を交えてご紹介する個人プロジェクトです。

近江生まれの筆者(兼松)が各地をなるべく公共交通機関と徒歩で訪ねて、時には現地のボランティアガイドの皆さんにご協力いただきながら、2013年3月より掲載してきました。

撮影許可が必要な場所や同伴者が必要な山の中以外は、現在ほとんどご紹介済みとなりました。その後2015年に滋賀で日本遺産に選ばれた場所があることから、そちらを追加してみようと現在各地を撮影中です。



国道8号線を彦根方面から北へ走ると、JR米原駅東口のすぐ左側を通る。平行して一本奥へ入ると、北国街道米原宿の町並みが広がっていることは意外と知られていない。

米原市は坂田郡の4町が合併して発足した市で、成立年は2005年(平成17年)と新しい。ちなみに米原町の「米原」は「まいはらちょう」と読む。米原宿の読み方も「まいはら」である。

琵琶湖に近いこのあたりはもともと葦が多く、「まよいはら」→「まいはら」と呼ばれるようになったのが語源だという。明治になって鉄道が敷かれたときに米原駅「まいばらえき」と呼ぶようになり、現在は「まいはら」と「まいばら」が並存している。

市名の米原市は駅名に合わせて「まいばらし」と読むが、米原インターチェンジ・米原ジャンクション(北陸自動車道)、米原湊の読み方は旧来通りの「まいはら」である。


かめや旅館の前、北国街道と中山道の分岐点に、江戸時代の道標が建つ。
弘化三年(1846年)に再建されたもので、「弘化三丙牛年再建之」「右中山道 はん八 さめかい」「左北陸道 なかはま きのもと」と刻まれている。場所はJR米原駅東口から徒歩10分程のところで、宿場の雰囲気の残る落ち着いた町並みが続いている。

深坂道
深坂道と呼ばれる、なだらかな坂道を登っていく。この先に米原高校があるので、何人かの生徒さんとすれ違った。
深坂道は江戸時代に、米原から番場を結ぶ道として開かれた。美濃・尾張からの荷が深坂道を経て米原湊に集まり、丸子船で琵琶湖を渡って大津へ、そして京都へ渡ったという。

深坂道案内版
深坂道は米原高校の近くで県道240号線とぶつかる。

米原高校の前を通り、高校のグラウンドに沿って続き、林を通り抜けて番場までの一本道となっている。林を抜けると左手に伊吹山が見えてくる。単調な道でどこまで続くのか少し不安になったころ、右手に番場の集落が見えてきた。

早春の番場
番場は中山道62番目の宿場で、醒井と鳥居本の間に位置する。
訪問したのは3月下旬で、集落のあちこちで梅の花が咲き、ツクシが生えていた。

早春の番場遠景
集落裏から訪問したので、番場宿のメインストリートは建物のある通りになる。
今回は地元の方のご案内で、番場から鎌刃城跡に登ることになった。登山口は東番場と西番場に一箇所ずつあり、今回は西番場から登っている。西番場バス停のそばに登山口の看板がある。戴いた地図によれば、この他にも西番場から滝谷林道を経由して400m手前まで車で行けるようだ。西番場から鎌刃城跡までは2km、徒歩約40分。

鎌刃城跡への山道は、地元の方が作った道案内が要所要所にあって、手入れされていて歩きやすい道だった。ただし冬場は積雪があり、5月の連休明けごろからはヤマビル(吸血性のヒル)が出るので、3月終わりにガイドを設定したとのこと。ご参考までに。


地図を見るとお分かりいただけると思うが、鎌刃城は佐和山城(石田三成の居城)、彦根城からさほど離れていない。典型的な中世の山城で、国境の警備を目的に作られた城だった。

米原市教育委員会発行のパンフレットによれば、鎌刃城の創建時期ははっきりしないが、文明4年(1472年)の記録に堀氏の城として出てきており、天文7年(1538年)には近江守護・六角氏の属城となった。六角氏といえば織田信長と戦って滅亡し、同時期に湖北を支配していた浅井長政も信長と戦って敗れている。

パンフレットによれば、堀氏は信長に味方したことで戦時下の湖北の支配を任され、鎌刃城は堀氏の居城として湖北支配の拠点となった。しかし、天正2年(1574年)に堀氏は改易を受け、鎌刃城は廃城になった。浅井氏滅亡後の湖北は羽柴秀吉に支配が任されたことで信長と堀氏の間は緊張関係となり、信長の粛清にあったらしい。

案内いただいた地元の方によれば、鎌刃城で使われた石は他の城を作るのに転用され、ここにはほとんど何も残っていないという。そういえば、彦根城も佐和山城(石田三成の城)の石垣を使ったと言われていることを思い出していた。

鎌刃城跡主郭
鎌刃城跡は現在、国の史跡になっている。
標高384mの山頂に主郭と副郭があり、主郭と副郭それぞれの尾根上に7ヶ所の曲輪がある。この写真は主郭跡で撮影したもので、近くには枡形虎口(ますがたこぐち)と呼ばれる門跡がある。

鎌刃城跡枡形虎口
枡形虎口(ますがたこぐち)。
「コ」の字状に石垣があり、内部にかなり大きな門(大手門)が建っていたと考えられている。解説は下記の写真をどうぞ。

枡形虎口解説板


鎌刃城跡から見た伊吹山
鎌刃城跡から見た伊吹山。眺めが素晴らしい。
山頂の展望台は2箇所あって、琵琶湖方面を眺めることもできる。下山して再び番場に戻り、蓮華寺を目指した。

蓮華寺本堂と紅梅
蓮華寺。訪問したのは3月下旬で、本堂前の紅梅が満開だった。

蓮華寺縁起によれば、聖徳太子の創建と伝えられる寺で、もとは法隆寺と称していたが、建治2年(1276年)に落雷で消滅した。その後弘安7年(1284年)、鎌刃城主・土居元頼(どいもとより)の厚い信仰を受けた一向上人が寺を再興し、蓮華寺と改めたとある。後に浄土宗に帰属して現在は浄土宗の寺となっている。蓮華寺は境内のミツバツツジが有名で、見ごろは例年4月上旬から中旬とのこと。

北条仲時らの供養墓碑
蓮華寺の境内奥には、北条仲時を初めとする432人の供養墓碑(五輪塔群)が並ぶ。1333年、鎌倉幕府が滅亡した年に、この地で悲劇が起きた。

北条仲時は、鎌倉幕府が京都に置いた「六波羅探題」という役所のトップだった。もう少し正確に言うと、六波羅探題は「京都六波羅の北と南に設置した出先機関」(ウィキペディア)で、北方と南方があった。最後の六波羅探題北方が仲時である。

倒幕運動を起こした後醍醐天皇の呼びかけに応じて、足利高氏(尊氏)らが動き、仲時は京都を追われる。仲時は光厳天皇と後伏見上皇、花園上皇を奉じて鎌倉に向かうが、番場で佐々木道誉に阻まれ、蓮華寺で一族432名と自刃した。享年28。天皇と2人の上皇は、道誉によって京都へ戻されたという。

佐々木道誉は湖北を支配した京極氏の一人で、京極道誉とも呼ばれる。米原市柏原の徳源院は京極氏の菩提寺で、境内には道誉桜と呼ばれる桜の大木がある。

北条仲時らの供養墓碑

東国へ向う途中、番場の宿の合戦に破れ、主従四百三十余人ことごとく自害して果てた。番場の蓮華寺には、今も彼らの石塔が残っており、仲時の墓を中心に、ひしめくように立並ぶ五輪塔は、「血ハ其身ヲ浸シテアタカモ黄河ノ流ノ如ク也。死骸ハ庭ニ充満シテ、屠所ノ肉ニ異ナラズ」という『太平記』の叙述を彷彿とさせる。-白洲正子『近江山河抄』「伊吹の荒ぶる神」

忠太郎地蔵尊
番場は、戯曲「瞼(まぶた)の母」の主人公、”番場の忠太郎”の生まれ故郷である。
五歳で母と生き別れた忠太郎は渡世人となり、母を捜して旅を続ける。江戸に母がいると聞いて料理屋の女将おはまを訪ねるが、おはまは名乗らない。「瞼を閉じれば昔のおっかさんの面影が浮かんでくる、それでいいんだ・・・」と言って再び旅に出る忠太郎。

蓮華寺境内には、「瞼(まぶた)の母」作者の長谷川伸さんが建立した忠太郎地蔵尊が祭られている。

撮影日:2015年3月25日
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