江戸時代の堅田と堅田藩、大庄屋と居初氏について(後編)

居初邸との蔵

「江戸時代の堅田と堅田藩、大庄屋と居初氏について(中編)」の続きです。

▼日本各地に存在した大庄屋

大庄屋(おおじょうや)というと、言葉の感じから”江戸時代の村長さんみたいな人で、大きな庄屋さん?”とイメージしがちですが、庄屋とはまったく別の存在でした。支配系統でいうと、江戸幕府→地方役人→大庄屋→庄屋(関東では名主)→村人という図になります。

コトバンク(大庄屋:日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)には、「代官、郡代、郡奉行(こおりぶぎょう)らの地方(じかた)役人の指揮下で、組下の庄屋、名主を統轄し、法令の伝達、年貢、夫役(ぶやく)の割付け、村々の訴訟の調整にあたった。」とあります。

大庄屋:江戸時代の村役人の一種で,惣庄屋,割元などとも。加賀金沢藩の十村(とむら)は著名。数ヵ村以上の庄屋・名主の上に立ち農民の最高位。苗字帯刀,扶持米給与等高い格式を与えられていた。
コトバンク(大庄屋:百科事典マイペディアの解説)

大庄屋:江戸時代の最上位の村役人。通常は、村役人の支配する村を十数か村から数十か村統轄する者をいい、その支配の範囲は、村高にして7000~8000石から1万4000~1万5000石であったという。身分は農民であるが、旧来は武士の由緒をもつ者が多く、その地方では格式の高い家とみられた。また支配者により、苗字(みょうじ)帯刀などの格式を許され、士分として扱われた場合もある。また収入として組下の村から給米を徴収したり、領主から切米(きりまい)や扶持(ふち)を支給される場合もあった。その名称は地域によって異なり、惣(そう)庄屋、惣代名主、割元(わりもと)、用元、検断、大肝煎(おおきもいり)、十村(とむら)、手永(てなが)などと称された。その職務の内容も地域によって差異があるが、代官、郡代、郡奉行(こおりぶぎょう)らの地方(じかた)役人の指揮下で、組下の庄屋、名主を統轄し、法令の伝達、年貢、夫役(ぶやく)の割付け、村々の訴訟の調整にあたった。初期には、天領、大名領にともに置かれたが、天領では正徳(しょうとく)年間(1711~16)に、不正が多いと廃止された。
コトバンク(大庄屋:日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

上記の解説にもあるように、堅田以外の藩でも大庄屋は存在していました。地域によって名称や職域が異なり、苗字帯刀や役料の有無などに差があるようです。前2回でも書きましたが、堅田藩では6人いる大庄屋は全員苗字帯刀を許され、藩から役料が支給されていました。また本堅田村の大庄屋3人は以前から苗字帯刀を許されていたことから、郷士身分だったと推察されます。そのうちの一人である居初氏については居初家文書として室町時代以降の膨大な資料が残っており、中世から郷士であったことがはっきりしています。

居初邸の調度品
(2012年に本堅田の居初邸で撮影させていただいたものです。居初の文字が見えます。)

▼堅田藩の大庄屋設置の歴史

堅田藩に大庄屋が設置されたのは、享保19年(1734)3月でした。享保と聞くと「享保の改革」を連想される方が多いのではないかと思います。8代将軍徳川吉宗による享保の改革は、有名なところをひろってみても、目安箱の設置が享保6年(1721)で、公事方御定書の制定が寛保2年(1742) と、ざっと見ても20年以上にわたる改革でした。この間、享保17年(1732)には享保の大飢饉が起こっています。大庄屋が設置されたのは、その約2年後です。

当時の幕府の最優先課題だった財政再建の一環として、コスト削減を行うために、行政の仕事の一部を民間委託する流れが出てくるのは自然なことでした。「物入無之様」(幕府の物入り=経費がかからないように)大庄屋が設置されたことは、1/31の報告会(「江戸時代の堅田と堅田藩」第二回報告会)で紹介された古文書からも伺うことができます。

では、堅田以外の藩では大庄屋がいつごろ設置されたのか。大庄屋の「廃止」について、「コトバンク」に興味深い記述があります。堅田藩に大庄屋が設置される以前の正徳3年(1713)、幕府直轄地(いわゆる天領)に対して大庄屋廃止令が出され、廃止されたというのです。

初期には、天領、大名領にともに置かれたが、天領では正徳(しょうとく)年間(1711~16)に、不正が多いと廃止された。
コトバンク(大庄屋:日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

幕領では,1713年(正徳3)諸国代官への通達(全13条)の11条において,大庄屋,割元,惣代などを廃止した。その理由は,彼らへの多額の給米が村の負担となること,彼らの専断により百姓が難儀する場合が多いこと,の2点にあった。
コトバンク(大庄屋:世界大百科事典 第2版の解説)

少なくとも1713年以前に、各地に大庄屋制度があったことが分かります。そして幕府直轄地(天領)に対する大庄屋廃止令の約20年後に、享保の大飢饉を経て、大名領の堅田藩で大庄屋が設置されたというのは興味深い事実です。

一連の流れをまとめてみました。
・近世初め~元徳11年(1698) 本堅田村が幕府領になる
・元徳11年(1698) 堅田藩成立(堀田家)
・正徳3年(1713)  幕府直轄地の大庄屋廃止
・享保6年(1721)  目安箱の設置(享保の改革)
・享保17年(1732) 享保の大飢饉
・享保19年(1734)  堅田藩に大庄屋設置
・寛保2年(1742)  公事方御定書の制定(享保の改革)

先ほど、大庄屋の設置は江戸幕府の財政再建の一環として設置されたと書きましたが、統治の仕組みを考える上で、地理的な要因も考慮にいれなければなりません。堅田藩一つとってみても、当時の滋賀郡と高島郡(現在の大津市北部から高島市南部)までと、広範囲に渡ります。たとえば郡代官に伺いを立てにいくのに、高島郡の庄屋が本堅田まで出向くのは、かなりの時間と手間が生じます。2016/1/31の報告会(東谷先生)によれば、領内各地に大庄屋を置き、ちょっとした届出の受領や提出は大庄屋の決済に任せてしまおうというのは、村人にとっても利便性の高いものでした。

堅田藩は文政9年(1826年)10月10日、第6代藩主・堀田正敦(まさあつ)が、初代堅田藩主の旧領である下野佐野へ所領を移されて(呼び戻されて)廃藩となりました。もっとも、堅田の所領のうち滋賀郡領は、佐野藩の飛び地として幕末期まで受け継がれています。佐野藩にも大庄屋が存在したということですが、居初氏をはじめとする堅田藩の大庄屋がどうなったのか、そのあたりのところまではよく分かりませんでした。

▼堅田藩の領地

連載の締めくくりに、堅田藩が治めていた地域を表記するとともに、地図にしてみました。なお『新修大津市史』によれば、今堅田は、元徳11年(1698年・堅田藩の成立した年)に三上藩の領地となり、天保4年(1833)に三上藩領から天領となったことを書き添えておきます。

○滋賀郡
赤塚村・・・滋賀県大津市滋賀里
千野村・・・大津市千野(ちの)
衣川村・・・大津市衣川(きぬがわ)
本堅田村・・・大津市本堅田(ほんかたた)
西猟師・・・大津市本堅田(郊外)
東猟師・・・大津市本堅田(郊外)
中村(真野)・・・大津市真野(まの)
沢村(真野)・・・大津市真野
谷口村・・・大津市真野谷口町(まのたにぐち)
普門村・・・大津市真野普門(まのふもん)
大野村・・・大津市真野大野(まのおおの)
下在地村(伊香立)・・・大津市伊香立下在地町(いかだち しもざいじ)
向在地村(伊香立)・・・大津市伊香立向在地町(いかだち むかいざいじ)
坂下村(葛川)・・・大津市葛川坂下町(かつらがわ さかした)
坂下村新田・・・大津市葛川坂下町
木戸口村(葛川)・・・大津市葛川木戸口町(かつらがわ きどぐち)
中村(葛川)・・・大津市葛川中村町
町居村(葛川)・・・大津市葛川町居町(かつらがわ まちい)
貫井村(葛川)・・・大津市葛川貫井町(かつらがわ ぬくい)
細川村(葛川)・・・大津市葛川細川町
北比良村・・・大津市北比良
南小松村・・・大津市南小松

○高島郡
鴨村・・・高島市鴨(かも)
下小川村・・・高島市安曇川町下小川(しもおがわ)
下古賀村・・・高島市安曇川町下古賀(しもこが)
太田村・・・高島市新旭町太田
浜分村・・・高島市今津町浜分(はまぶん)
北仰村・・・高島市今津町北仰(きとげ)
岸脇村・・・高島市今津町岸脇
桂村・・・高島市今津町桂
酒波村・・・高島市今津町酒波(さなみ)
新保村・・・高島市マキノ町新保

今回掲載した写真は2012~2013年に居初邸で撮影させていただいたものです。当連載は10年間堅田で撮影し調べてきたことの備忘録として記しています。地元の皆様や堅田に関心のある方のご参考になれば幸いです。
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