江戸時代の堅田と堅田藩、大庄屋と居初氏について(中編)

居初邸と、古い蔵

「江戸時代の堅田と堅田藩、大庄屋と居初氏について(前編)」の続きです。

▼前編のあらすじ

江戸時代、近江国堅田藩には、庄屋とは別に「大庄屋(おおじょうや)」と呼ばれる人たちがいました。藩の決裁権の一部を委ねられた民間人で、米5俵(2石)の役料をもらい、苗字・帯刀を許されていました。藩と村(庄屋)をつなぐ役割を持ち、郡奉行への願書・届書などの窓口となっていたことが、最近の研究で分かってきました。

6人の大庄屋の中には、「近江国滋賀郡本堅田村 居初八郎右衛門」の名前がありました。中世の堅田を治めた地侍、「殿原衆」(とのばらしゅう)の筆頭格が居初(いそめ)氏です。ちなみに居初さんは現在も本堅田にお住まいです。

このほか前編では、元徳11年(1698)に成立した堅田藩の歴史、堅田陣屋跡、当時の本堅田の地名をご紹介しています。

居初邸外観

▼中世以降の居初氏について

1586年(天正14年)、豊臣秀吉坂本城(明智光秀の居城)を廃城とし、現在の大津港(浜大津)の辺りに大津城を築城します。その際に、「大津百艘船」と呼ばれる船株仲間制度を作り、坂本堅田などの船持に湖上水運の特権を与えました。

筆者が初めて堅田を訪ねた2006年以降、”大津百艘船制度の下で居初氏の影響力は低下していった”というニュアンスの文章を見ることがほとんどだった記憶があります(たとえば居初邸を見学したときのパンフレットなど)。ところが、「居初家文書の世界」(大津市歴史博物館ミニ企画展・2013年9月開催)の展示解説のなかに興味深いものがいくつかありました。

居初家に伝わる豊臣秀吉の朱印状(天正19年11月3日)には、朝妻(米原市)・船木からの材木や薪などの輸送は大津百艘船で、蔵米はその他の浦舟で輸送するように命じています。他の資料とつき合わせると、琵琶湖の公式な水運ルートとして、大津百艘船ルートの他に、堅田ルートが認められていたことが分かってきました。

また、江戸時代(明和3年・1766年)の「船仲間諸用留帳」からは、本堅田の居初家簗瀬家・竹内家、今堅田の竹内家の四家で船道仲間を結成していたことや、堅田浦が幕府と各浦の仲介役を果たしていたことが伺えます。

堅田や歴史博物館に通って調べていくと、江戸時代の居初氏は「船道郷士」の一家として別格の扱いを受けた存在であることが分かってきました。「船頭郷士」は、他の郷士身分の者たち(「堅田郷士」とは区別された存在でした。堅田郷士や村人とは、時に村の運営や水運などをめぐって争いになることもあったようです。

出典:「居初家文書の世界」展示解説(大津市歴史博物館ミニ企画展・2013年9月)
出典(当ブログ):「大津百町」の中の堅田~かつて大津旧市街に上堅田町・下堅田町と呼ばれた町がありました

▼では、郷士→大庄屋なのか?

郷士(ごうし)とは、三省堂 大辞林によれば「江戸時代,農村に居住した武士。また,由緒ある旧家や名字帯刀を許された有力農民を指すこともある。」とあります。居初氏の場合は、まさに「由緒ある旧家や名字帯刀を許された有力農民」にあたります。

ウィキペディアによれば、「郷士(ごうし)は、江戸時代の武士階級(士分)の下層に属した人々を指す。江戸時代、武士の身分のまま農業に従事した者や、武士の待遇を受けていた農民を指す。」とあります。著名な郷士として、ウィキペディアには土佐藩の坂本龍馬が挙げられていますが、こちらのイメージが強いかもしれませんね。

ここで再び、堅田藩の大庄屋6名の名前を見てみましょう。
・近江国滋賀郡本堅田村 居初八郎右衛門・藤田源右衛門・木村伝右衛門
・近江国滋賀郡大野村 吉田伊兵衛
・近江国高島郡北仰村 橋下安兵衛
・近江国高島郡浜分村 岩佐太郎助
(出典:「江戸時代の堅田と堅田藩」第二回報告会レジュメ、東谷智先生担当分)

今回の報告会で興味深かった話の一つが、「本堅田村出身の大庄屋3名は、武士階級ではないが、大庄屋になる以前からすでに帯刀を許されていた人たちだった」と言うのです。つまり、3名は郷士だったことになりますね。

そして、船道郷士は本堅田の居初家・簗瀬家・竹内家と今堅田の竹内家の四家だったのですから、本堅田村の大庄屋は、居初八郎右衛門以外は堅田郷士だった可能性が高いと思われます(筆者の私見)。

では、残る3名の大庄屋はどんな人たちだったのかというと、現段階ではっきりしたことは分かりません。ただし、それまで帯刀を許されていた人たちではなかったというのです。そういう人たちを含めて新たに「大庄屋」という役割を与え、行政組織の中に組み込んでいったことが特筆すべき点であると、それが東谷先生の考察でした。

ツツジの頃、天然図画亭にて1

▼堅田藩の大庄屋の一人、居初八郎右衛門について

居初八郎右衛門は17代当主にあたります。琵琶湖博物館の「居初家文書」のデータベースの中に名前がありました。(ちなみに現在の居初さんは29代目です。)

33 木徳堅田郷士願■■■■書付(郷士免許・聟入祝儀)
差出(作成):竹内荘三郎登和(花押)、辻平右衛門用信(花押)、木村源右衛門宗雄(花押)、猪飼甚右衛門勝義(花押)、居初八郎右衛門豊儀(花押)

琵琶湖博物館 歴史資料データベース » 150 居初家文書Ⅱ:77点

↓こちらは船道郷士4名の連名ですね。

170  堅田浦由緒申上候覚  年月日:享保12年10月   西暦:1727
差出(作成):竹内茂左衛門、居初八郎右衛門、竹内傳右衛門、簗瀬四郎兵衛

琵琶湖博物館 歴史資料データベース » 147 居初家文書Ⅰ:215点

今回掲載した写真はすべて、居初邸で撮影し、過去に当ブログで掲載したものです。次回は未公開写真とともに、大庄屋が生まれた背景や堅田への影響をご紹介します。
当連載は、10年間堅田で撮影し調べてきたことの備忘録として記しています。地元の皆様や堅田に関心のある方のご参考になれば幸いです。
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