滋賀の戦争遺跡2:陸軍八日市飛行場跡と幻の近江鉄道御園駅、布引丘陵の掩体壕(滋賀県東近江市)

1.陸軍八日市飛行場跡

1-1.廃線「近江鉄道八日市線 御園駅(飛行場駅)」と八日市飛行場

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滋賀県東部を走る近江鉄道に、新八日市という駅があります。東近江市の八日市駅~近江八幡市の近江八幡駅を結ぶ「八日市線」の駅です。

昭和の初めから戦後間もないころ、新八日市から更に西に向かって延びる支線がありました。別名・飛行場線。当時新八日市駅の西側には「陸軍八日市飛行場」が広がっていたのです。

飛行場線は、湖南鉄道を前身とする「八日市鉄道」の路線として1930年(昭和5年)10月1日に開業しました。
戦時中の1944年(昭和19年)3月1日、八日市鉄道は「近江鉄道」に合併されます。

飛行場線は戦後の1948年(昭和23年)8月1日に運行休止し、1964年(昭和39年)9月25日、正式に廃止されました。

近江鉄道八日市線の廃線跡は、地元では湖南鉄道の線路跡として知られています。道を知る地元の方と歩いてみたところ、桜並木の車道になっていました。
道沿いに住宅街が続いていましたが、残念ながら駅の跡を示すものは見つけられませんでした。

※路線図”Ohmi Railway Linemap” by ButuCCOwn work. Licensed under CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons.

追記:この記事で掲載している飛行場地図は、正当なルートで得た地図を元に当ブログの筆者が色をつけてわかりやすく加工したものです。他ブログで無断転載がありましたので明記させていただきました。無断転載はご遠慮下さい。(兼松純写真事務所)

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滋賀県神崎郡御園村(当時)の地図です。地図上に「ひかうち゛やう」と記された「飛行場駅」は戦時中に「御園駅」と改称され、飛行場線と同じ歴史を辿りました。

八日市飛行場は戦時中に俳優の三船敏郎さんが所属していたことで知られますが、もとは民間飛行場でした。

大正時代の初め、滋賀県愛知郡八木荘村(旧・島川村、現在の愛知郡愛荘町島川)に、フランスの航空学校で飛行免許を取得して帰国した、荻田常三郎(おぎた つねさぶろう)という人物がいました。

呉服商の跡取り息子だった常三郎は、同志社中学を辞めて軍に志願し陸軍少尉となりますが、飛行家にあこがれて実家に戻り私費でフランスへ留学。帰国後に参加した国内の飛行競技会で1位となり、一躍時の人となります。

同1914年(大正3年)、故郷・八木荘村に近い神崎郡八日市町沖野ヶ原(現在の東近江市沖野)への訪問飛行に成功します。これが契機となって「八日市飛行場設立委員会」が設立されました。

ところが翌1915年に常三郎は墜落死してしまいます。常三郎の遺志を継いだ八日市飛行場設立委員会の尽力で同年沖野ヶ原に完成したのが、日本初の民間飛行場「八日市飛行場」でした。

しかし、その後設立された飛行学校の挫折や飛行場利用の少なさから、八日市町は飛行場を軍用地へと方針転換します。陸軍航空第3大隊が誘致され、飛行場は陸軍八日市飛行場となりました。

1-2.陸軍飛行第3連隊跡と沖原神社

八日市へ配属されたのは、1920年12月結成の「航空第3大隊」でした。1921年秋から1922年にかけて八日市に配属され、1925年に「飛行第3連隊」に改称されます。

陸軍飛行第3連隊跡の碑
陸軍飛行第3連隊跡の碑が、八風街道沿いの自動車販売店の脇にあります(東近江市東沖野1丁目)。

飛行第3連隊正門跡地の碑
そして飛行第3連隊正門跡地の碑が、同じ国道沿いのコンビニの前にあります(東近江市東沖野3丁目)。↑ここにあった正門が現在どこにあるかというと・・・↓

沖原神社

飛行第3連隊正門

沖原神社の境内に飛行第3連隊の正門が現存します(東近江市東沖野3丁目)。
標識も何もないので、八日市飛行場にあった門だと分からないのが惜しまれます。

沖原神社は1925年(大正14年)、航空第3大隊の初代隊長・後藤元治大佐の意向で、陸軍八日市飛行場の守護として建てられた神社です。当初は「衛戌神社」といい、1927年(昭和2年)に「沖原神社」となりました。八日市飛行場から出撃する兵士は沖原神社に参拝して戦地に向かったのです。現在は東沖野町と沖野町の氏神として地元の信仰を集めています。

2.掩体壕

掩体壕案内板
終戦の約一年前の夏頃(1944年)、八日市飛行場の軍用機を米軍の空襲から守るため、近くの布引丘陵に掩体壕(えんたいごう)と呼ばれるシェルターが造られました。

2014年秋に現地を撮影させていただいた際に東近江市から受けた説明によれば、布引丘陵全体で17基から21基の掩体壕があったと言われています。

2000年~2001年に行なわれた調査では、コンクリート製の掩体壕が2基、土製の掩体壕が10基、合計12基の現存が確認されているとのことです。

布引丘陵一号掩体壕
こちらが一号掩体壕と呼ばれる、コンクリート製の掩体壕です(東近江市柴原南町)。

布引丘陵一号掩体壕奥
一号掩体壕を反対側から撮影したものです。コンクリート製であることがよく分かります。

布引丘陵一号掩体壕反対側遠景
一号掩体壕を少し離れたところから撮影しています。フェンスに囲まれ、一見すると古墳のようです。
この場所(布引丘陵の麓)から上に続く遊歩道を上がってみると・・・

布引グリーンスタジアム
布引グリーンスタジアムに出ました。この麓に掩体壕があるのが信じられない位、全く別の風景が広がっていました。

掩体壕は日本各地に100基余りが残るだけと言われています。関西ではほかに大阪府八尾市に1基残っているだけで、布引丘陵の掩体壕は戦争遺跡として全国的にも貴重なものです。

布引丘陵の掩体壕は、民有地に所有者の許可なく造られ、未完成のまま終戦を迎えました。戦後は何ら公の保全も補償もされないまま、土地所有者に負担を強いて戦後70年を迎えようとしています。

3.八日市の関連戦跡

3-1.京都憲兵隊八日市分置隊跡(東近江市八日市東本町)

大凧会館の陸軍省標柱
東近江市の東近江大凧会館の周囲には、建物を取り囲むように「陸軍省」の標柱が残っています。戦時中ここには「京都憲兵隊八日市分置隊」が置かれていました。

写真は大凧会館前の排水溝の中に埋もれるように建っていた標柱です。大凧会館前にはさらに別の標柱が、駐車場に回ると建物との境にもまた標柱があるので、大凧会館に行かれる方はぜひ探してみて下さい。

3-2.八日市飛行場跡地と平和橋(東近江市八日市柴原町)

平和橋
蛇砂川の北側は、戦時中に陸軍八日市飛行場拡張のために接収され、川も約200m南に付け替えられました。戦後返還されたこの土地を元の田畑に戻すため、大変な開墾作業が続けられたそうです。

その後、1957年(昭和32年)から川の南側(本田)で土地改良事業が実施されました。そのとき、川の北側(飛行場跡の開墾地)と南側(本田)を結ぶ橋が現在地に付け替えられ、「平和橋」と名づけられました。

広島の平和大橋をモデルに作られたこの橋は、戦争の惨禍を二度と繰り返すことのないようにという平和への願いが込められています。

撮影日:2014年11月
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