伊吹の荒ぶる神8(北国脇往還1:関ケ原から藤川の里を訪ねる、上平寺に寄り道して春照へ)~近江山河抄の舞台を歩く(72)

ある時私は、関ケ原から遡って、藤川の集落を訪ねたことがある。一条兼良はしばらくこの辺に滞在し、『藤川記』という書を残したが、定家も若い頃いたと伝えられ、彼が住んだという旧家も残っている。
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藤川から伊吹の山麓を通って、木之本へぬける裏道があり、北国街道の「脇往還」と呼ばれる。田圃の中に稲架(はさ)がつづくひなびた風景は、近江の懐深く入りこんだという感じがする。その途中、伊吹の村で、円空作の十一面観音を見た。-白洲正子『近江山河抄』「伊吹の荒ぶる神」


「藤川」とは、岐阜県の関ケ原と境を接する、滋賀県米原市藤川のことである。
藤原定家の旧家は既に無いため、藤川宿の脇本陣があった辺りで撮影させて頂いた(写真)。

小倉百人一首の撰者として知られる定家は、平安時代から鎌倉時代にかけての歌人である。若い頃は父親との折り合いが悪く、所領のあった藤川で数年暮らしたと言われている。

『藤川記』を書いた一条兼良については、「伊吹の荒ぶる神7」の中でもご紹介している。
兼良は関白を勤めた人物で、退いた後に応仁の乱を避けて奈良に住んだ時期があった。
奈良から美濃への旅行記が、文明5年(1473)に執筆された『藤川の記』である。
「『藤川の記』 (現代語訳V2.0)」さんのサイトで、貴重な現代語訳を読むことができる。

▼『藤川の記』 (現代語訳V2.0)
http://teppou13.fc2web.com/hana/itijo/FUJIKAWA/fujikawa_no_ki.html


藤川への路線バスは既に廃止されていたため、関ケ原から2時間かけて歩くことにした。というのも、関ケ原から「北国脇往還」と呼ばれる脇街道が走っていることを知ったからだ。

北国脇往還は中山道(関ケ原)~北国街道(滋賀県木之本)のバイパスで、伊吹山南麓を通る。歩けばいい風景に出合えるだろう。そのうえ江戸時代は参勤交代に使われたという歴史ある道だ。せっかくの機会なので藤川を超えて木之本まで歩いてみようと、3回に分けて歩く計画を立てた。

初回は関ケ原駅から玉(関ケ原町玉)、滋賀県米原市の藤川を経て春照まで12km歩いた。白洲さんが「円空作の十一面観音」を見たという「伊吹の村」が、米原市春照(すいじょう)である。


◆先行記事「特別編:伊吹山麓の道、北国脇往還を歩く~花と水辺の風景」
1(関ケ原の栗の木⇒米原市春照のヒガンバナ)
2(ヒガンバナの道⇒姉川のソバ畑と伊吹山)
3(長浜市/野村の水路と八島の水車⇒伊部宿⇒小谷郡上のお地蔵さん)
4(長浜市/高月町馬上の水辺⇒雨森のイチョウ⇒木之本)


ご存知、関ケ原は、天下分け目の戦いとなった「関ケ原の戦い」の舞台となった。
北国脇往還は関ケ原駅前の十六銀行の前から始まり、至る所で古戦場跡に出くわす。

JRの高架を超えると東首塚、そして陣場野公園には「徳川家康最後陣跡」といった具合だ。玉集落の北国脇往還沿いには、関ケ原の戦いで死んだ東軍の武将・奥平貞治の墓がある。

関ケ原の戦いといえば、小早川秀秋が東軍(家康側)に寝返った話がよく知られている。
寝返りの約束をした小早川を、家康の命を受けて監視していたのがこの貞治だった。

動かない小早川に苛立った家康が、小早川隊のいる松尾山へ威嚇発砲したのは有名な話だ。ところが、小早川家の家臣(松野重元)が主君の裏切りに抗議して、戦線を離脱してしまう。そこで貞治は松野隊(小早川隊の先鋒)を率いて松尾山を駆け下り、西軍の大谷隊と戦った。

貞治の活躍で小早川隊は大谷隊に勝ち、戦局は一変。関ケ原の戦いは東軍の勝利となった。しかし貞治は大谷隊との戦いの際に亡くなる。場所は当時の玉村あたりだったといわれている。

貞治には子がなかったため、その母が家康から供養料300石を年々与えられた(ウィキペディア)。
元治元年(1864年)10月には、子孫の奥平新左衛門源貞昭が、当地に墓を建立した。


とても残念なことに、北国脇往還は、玉と藤川の集落の間で道が消えていた。
川沿いに背丈以上の草が茂り、藪こぎをしても進めるか分からない状態になっていたのだ。やむをえず、並行する車道に迂回して米原市に入り、藤川の交差点で北国脇往還に戻った。
写真は、合流地点の手前で北国脇往還を撮影したもの。道の左側はかなりの藪である。

関ケ原町内は、古戦場跡が散在しているおかげで、歩道は歩きやすく整備されていた。
道は使われなければなくなるものだということを、改めて思い知らされる。


藤川の集落のはずれで藤古川を越えると、北国脇往還は寺林(てらばやし)の集落に入る。
(この藤古川下流に、「伊吹の荒ぶる神7」でご紹介した壬申の乱激戦地と不破の関がある。)
八阪神社近くのお地蔵さんの脇で、道中初めて北国脇往還の看板を見た。

八阪神社でお弁当を食べた後、看板にある「上平寺」(じょうへいじ)へ寄り道することにした。上平寺遺跡は京極氏の居城があったところで、平成16年に国の史跡に指定されている。

上平寺遺跡イラストマップ
戦国時代に北近江を支配した京極氏は、北近江最初の都市を上平寺に築いたと言われる。
上平寺の城下町の発展に、北国脇往還の存在が寄与したのは言うまでもない。
だが、浅井氏の台頭により京極氏は当地への支配力を失い、上平寺は廃城となった。
(※上平寺遺跡イラストマップの写真はこちらをクリックすると拡大します。)


寺林集落から県道を渡ると上平寺で、坂を上った先に伊吹神社の参道入り口がある(写真)。
山道の脇には遺跡が点在し、所々案内板があった。6分程歩くと伊吹神社に着いた。


伊吹神社。この左隣に登山ポストがあり、伊吹山への登山道が続いている。
ちなみに上平寺遺跡を越えて藪こぎすると、伊吹山の5合目当たりに合流するという。
今回は伊吹山には登らず、この階段を上って伊吹神社に参拝するのが目的だ。


伊吹神社拝殿と狛犬。
普段は地元の方以外、ここまで上ってくる人は少ないようだ。
この近辺では、(特に夏場は)ヒルとススメバチ、クマにご注意を。私はヒルにやられました。


伊吹神社の境内には、当地を支配した京極氏ゆかりの女性の墓がある。
歴代当主の墓は同じ米原市にある「徳源院」に移され、女性の墓だけが残ったのだ。

ちなみに徳源院は、2013年夏に当シリーズの一環として撮影させていただいている。(沖つ島山7(近江源氏・佐々木氏ゆかりの地を巡る。氏神「沙沙貴神社」と京極家の菩提寺「徳源院」)

京極氏ゆかりの地を巡って、またひとつ、点と点がつながったような気持ちになった。
作品に反映されることで、皆さんに滋賀を知っていただけるきっかけになればと願っている。


伊吹山の麓には、伊吹山をご神体とする「いぶき神社」がいくつもある。
そのため、『近江山河抄』に出てくる「伊吹神社」がどこなのか、確証が持てなかった。(写真は米原市伊吹の「伊夫岐神社」)

伊吹神社には、今でも伊吹氏という宮司がおられるが、麓の平野はかつて息長(おきなが)氏の所領で、姉川に面して大きな前方後円墳が立っている。
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伊吹山のイブキと、オキナガの「息」には、何か関係がありはしないか。伊吹山は霧が深いので有名だが、先年登ったとき、・・・私は目くるめく思いがした。それはまさしく神のいぶきとしかいいようのない凄まじさであった。そのいぶきが、長くあれかしと念じたのが、息長の名のはじまりではなかったであろうか。-白洲正子『近江山河抄』「近江路」

息長陵との位置関係から、私は姉川の畔にある「伊夫岐神社」(米原市伊吹)だと考えた。
そして2014年2月末に伊夫岐神社を撮影させていただいた。
伊吹の荒ぶる神5(伊夫岐神社と息長陵、早春の三島池)

ところが、上平寺の伊吹神社の存在を知ってから、気になって仕方なかった。
上平寺の伊吹神社は伊吹山の登山口にある。もしかして・・・と思ったのだ。

結論からいえば当初の考え通り、姉川の「伊夫岐神社」を指すと考えて差し支えない。


滋賀県の資料「伊吹山の歴史・文化」には、「伊夫岐神社(伊吹神社)」の記述がある。
そして「伊夫岐神社、三之宮神社およびこの両社の社務を協力して行う四ヶ寺の二社四寺によって伊吹山の山岳信仰が成り立っていた。」と締めくくられている。

伊吹山は古くから山岳信仰の山として崇められてきた。山頂には一の宮こと弥勒堂がある。中腹の二の宮が、美濃国二の宮こと「伊富岐神社」(岐阜県不破郡垂井町岩手字伊吹)。そして三の宮が、上野登山口にある「三之宮神社」(滋賀県米原市上野)である。

この「三之宮神社」「伊夫岐神社」、そして「伊吹山四ヶ寺」(弥高寺・太平寺・観音寺・長尾寺)が伊吹山の山岳信仰を支えてきた。ただし伊吹山四ヶ寺は殆どの寺が様変わりしている。

(2016/3/7追記)

弥高寺と長尾寺は中世に兵火に遭い、それぞれの構成寺院の一つが跡を継ぐ形で残り、名称も替わっている。観音寺は正元年間(1259-1260)に現在地へ移築された。太平寺は昭和38年(1963年)、集落の移転とともに新たに観音堂が建てられている。現在の名称と所在地は下記の通り。

弥高寺(悉地院) 米原市上野1(※本堂拝観要予約)
長尾寺(惣持寺) 米原市大久保(※本堂拝観要予約)
観音寺(観音寺) 米原市朝日1342(境内拝観自由)
太平寺(太平観音堂) 米原市春照658−4(※拝観要予約)

惣持寺(長尾護国寺)と伊吹山寺~早春の滋賀県米原市大久保から(2)

(追記ここまで)


上平寺から再び寺林集落へ戻り、北国脇往還を行こうとしたが、道は林の中だった。
しかも、この林の中からサルの親子が出てきたところを目撃し、迂回することに決めた。

寺林から春照まで、1時間以上、延々と車道を歩いた。途中で泉神社(名水百選)への分岐点に出合うが、気温30度だったので寄り道しなかった。

畑と民家が見えて、伊吹山の稜線が優しくなってきたと思ったら、弥高の集落に入っていた。川を越えると春照に入る交差点があり、すぐに北国脇往還の史跡「野頭観音堂跡」がある。


野頭観音堂跡。伊吹山の麓に、今は石碑とお地蔵さんが残るのみ。
芭蕉が当地で詠んだという「頭巾めせ 寒むや 伊吹の山おろし」の句碑が置かれていた。



案内板によれば、野頭は松尾寺観音堂茶所の跡で、北国脇往還に残った唯一の史跡だ。
脇往還は若狭(福井)と美濃(岐阜)を結ぶ交通の要衝で、藤川・春照の宿が置かれたとある。

北国脇往還の宿駅は、今回の行程では玉・藤川・春照になるが、3箇所とも建物が残っていない。そこで今回は、沿道の知られざる史跡や神社を中心にご紹介してみた。

春照(米原市春照)は北国脇往還の宿の一つで、明治時代には一時期鉄道が敷かれた。
とても美しい町並みが残っており、次回にご紹介したい。今回は山麓の道がほとんどで集落間の移動が心細かったが、次回以降は大半が平野部になる。

なお、冒頭に出てきた円空作の十一面観音は、春照の「大平(たいへい)観音堂」にある。
太平寺集落はもともと伊吹山中腹にあったが、昭和38年にセメント工場の開設に伴って移転。十一面観音も一緒に移った。現在は地元の方が観音堂の管理をされている。
なお、円空が修行したのは、「伊吹山四ヶ寺」の一つである「太平寺」だったといわれている。

(撮影日:2014年9月15日)


▼大平観音堂の写真と解説(滋賀県米原市春照(旧・坂田郡伊吹町春照))
太平観音堂/滋賀(仏像ワンダーランド)

▼滋賀県教育委員会・埋蔵文化財活用ブックレット(PDF)
埋蔵文化財活用ブックレット9(近江の城郭7)京極氏遺跡群 -京極氏館跡・上平寺城址・弥高寺跡-

 

次回:伊吹の荒ぶる神9(北国脇往還2:米原市春照~長浜市野村~八島~伊部~小谷)

米原市春照から、分水のある小田(やないだ)を経て、姉川を越え、長浜市への山越え。水巡る美しいまち野村、貴重な道標が残る八島、伊部宿本陣跡、浅井三姉妹の城下町・小谷郡上へ。