鈴鹿の流れ星9(木地師の里、滋賀県東近江市蛭谷から君ヶ畑を巡る)~近江山河抄の舞台を歩く(71)


日本には、木地師(きじし)と呼ばれる職人がいる。木地師の仕事は、まさに職人技だ。
ろくろと呼ばれる道具を使って木を削り、漆などは使わず木地を磨き、円形の椀や盆などを作る。木地は5年ほどかけて乾燥させてから使うため、気温や湿度の変化にも強い。

この木地師発祥の地とされているのが、滋賀県東近江市の蛭谷町から君ヶ畑町である。
鈴鹿山系の小椋谷(おぐらだに)と呼ばれる地域で、近年は奥永源寺地域とも呼ばれている。蛭谷と君ヶ畑には、現役の木地師が一人ずつおられるというので、先日お会いしてきた。

冒頭の紅葉の写真は、蛭谷の木地師・北野さんの工房裏で撮影させていただいたもの。
八日市IC方面から国道421号(八風街道)を経て県道34号に入り、政所、箕川を過ぎると蛭谷だ。八風街道をそのまま行くと三重県の「いなべ市」とのことで、三重ナンバーの車を時折見かけた。


木地師の歴史は古く、今から1150年以上遡ると言われている。
859年(平安時代)、惟喬親王が蛭谷・君ヶ畑に隠れ住み、ろくろの技術を伝えたという伝承がある。法華経の巻物のひもを引いたとき、軸が回転するのを見て手引きろくろを作り、里人に教えたという。

惟喬親王は文徳天皇の第1皇子だが、母親の違う弟(藤原良房の孫)との皇位継承争いに遭った。弟の惟仁親王は皇太子となり、後に即位する。後ろ盾の無い惟喬親王の即位は叶わなかった。

失意の親王が20代で出家して隠棲したのが、小野(滋賀県大津市小野)・京都大原とも言われる。小野の北には、朽木谷(現・高島市朽木地区)と呼ばれる、やはり木地師の里があった。その朽木谷の木地師が、故郷の小椋谷へ伝えたのが、惟喬親王の伝承だったとも言われている。

木地師たちは、木材を求めて山を移動する厳しい生活をしながら、全国各地に散らばっていった。その心の支えや誇りが、惟喬親王が木地師の祖であるという伝承であったことは、想像に難くない。そして、東北の木地師によって作られたのが、あの有名な伝統玩具の「こけし」である。


蛭谷の筒井神社(写真)の境内奥には、「木地師資料館」がある。
館内には、古文書やろくろのほか、東北の木地師が納めたというこけしが所狭しと並んでいた。ここで資料を頂いた後、筒井神社の左にある親王塚(伝承)に参拝し、続いて君ヶ畑へ向かった。県道34号線と別れて、山中を右の道へと進み、しばらく行くと君ヶ畑へ出る。

ご案内頂いた方によれば、小椋谷には九居瀬、黄和田、政所、箕川、蛭谷、君ヶ畑の集落がある。
君ヶ畑の奥には茨川という集落があったが、昭和40年頃に最後の住民が去って廃村となった。
白洲正子さんが「かくれ里」の執筆で小椋谷を訪ねたのは、茨川廃村直後の頃だったらしい。茨川は最後まで電気が引かれなかった地区で、現在は大学の登山小屋などが数軒あるという。


江戸時代、蛭谷・君ヶ畑には、全国の木地師を統括する役所が置かれていた記録がある。
君ヶ畑の役所は金竜寺に置かれ、惟喬親王が隠棲したという伝承から高松御所と呼ばれた。
写真の金竜寺(高松御所)は京都御所に似た建物で、屋根には皇室ゆかりの菊の紋が見える。君ヶ畑はもともと「小松畑」という地名で、惟喬親王が隠棲した伝承から「君ヶ畑」に改められた。


君ヶ畑にある、大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ/明治以前は「大皇大明神」)。
金竜寺(高松御所)のすぐそばにあり、木地師の祖神として惟喬親王を祭っている。
明治の初めまでは、大皇大明神の年番神主が、金竜寺住職と共に高松御所の運営に当たった。

ちなみに、木地師を統括する蛭谷の役所は、筒井公文所と呼ばれていた。
その運営に当たったのは、当時筒井峠にあった筒井八幡宮(現在の筒井神社)の神主。
そして、現在の筒井神社の隣にある、帰雲庵(臨済宗永源寺派)の住職だったという。

当時の木地師はいわば流浪の民で、大皇大明神や筒井八幡宮に身分を保障してもらっていた。神主と住職が役所を運営したというのは、全国の木地師を氏子として統率したということである。しかし、その影響力は時に軋轢を起こしたようで、役所をなくして欲しいという声も記録に残る。

明治以降、木地師は定住生活を送るようになり、時代の変化と共にその数は激減していく。蛭谷・君ヶ畑で記録した、全国の木地師の氏子帳(氏子狩)も、明治中期までには途絶えた。


君ヶ畑の集落にて。
君ヶ畑で唯一の木地師、小椋昭二さんの工房を見学し、アトリエで作品を見せて頂いた。
小椋さんの作品は木目を活かした素晴らしいもので、息を呑むような美しさだった。
その後、蛭谷との分岐点(県道34号線との分岐点)まで戻り、筒井峠へと向かう。


県道34号線を進むと、筒井峠の急な山道の先に、惟喬親王御陵がある。
筒井峠にあった筒井八幡宮は麓に下りて筒井神社になり、当地には惟喬親王像が残る。

ところで、親王像の台座の銅版が無いことにお気づきだろうか。案内してくれた方が、2014年夏に来たときは銅版は確かにあったと、呆然とされていた。昨今、銅線泥棒のニュースが絶えないが、山中の墓所にまで金属泥棒とは・・・胸が痛む。


惟喬親王御陵の参道を上っていく。
見事な森林に囲まれ、神域特有の幽玄な空気が辺りを包む。


参道の途中には「惟喬親王幽棲之趾」の碑がある。
毎年7月中旬に、この場所で惟喬親王祭が行われているという(東近江市蛭谷町主催)。

道中ずっと案内していただいた東近江市在住の方から、とある興味深い話を伺った。
筒井峠の先には、百済寺(ひゃくさいじ)の奥の院(百済寺甲町)があるというのだ・・・
まさに白洲正子さんの記述と、ぴったり符合するではないか。

小椋谷の入り口の永源寺から、北へ向って行くと、百済寺、金剛輪寺、西明寺が、ほぼ同じ間隔に並んでいる。「湖東三山」とも呼ばれ、近江では指折りの古い寺院である。
・・・
小椋谷へは、今永源寺から、愛知川ぞいに入って行くので、さもその寺と関係がありそうに見えるが、永源寺は比較的新しい寺で、木地師のような大集団が依存するためには、はるかに裕福な寺を控えている必要があった。
・・・
そして、来てみてやっぱりよかったと思う。[百済寺の奥にある百済寺甲という]村の人に尋ねると、峠一つ越えれば、裏は小椋谷の箕川で、歩いて二、三十分しかかからない。木地師が自分たちのひいた器を背負って、この山道を往来した当時の姿が目に浮ぶ。それは地図で見ても、本で読んでも、決してわかる筈のない彼らの生活の歴史であった。

彼らは鈴鹿の谷伝いに、金剛輪寺へも、西明寺へも、多賀大社までも通ったに相違ない。多賀大社で売っている名物のおしゃもじは、その当時の名残りである。-白洲正子『近江山河抄』「鈴鹿の流れ星」


筒井千軒址。ここにはかつて、多くの木地師が暮らしていたといわれている。
千軒とは人家が沢山あったという意味で、実際に千軒あったわけではないけどね、と案内の方。
それでも、立派な森を見ていると、ここにたくさんの暮らしがあったことが想像できる気がする。この後、蛭谷の木地師・北野清治さんの工房に寄って、雨に濡れる小椋谷を後にした。

「『5年かけて木地をねかせて、その木地で器を作って、大事に使う』というのは、『外国のものをどんどん買って経済をまわせ』というのとは、正反対の暮らし方だけれど、そういう先人の暮らしを私は大切にしてきたいと思います。」
木地師の北野さんがしてくれた話が、ずっと心に残っている。

(撮影日:2014年11月1日)

 

永源寺の紅葉-8

「鈴鹿の流れ星」は、2013年秋に滋賀県東近江市と甲賀市・湖南市を掲載したシリーズです。このたび、東近江市蛭谷と君ケ畑を撮影する機会に恵まれ、今回は続編として掲載しました。
ご協力いただいた東近江市の皆さま、本当にありがとうございました!
(上の写真は永源寺の紅葉です。)

続いて蛭谷と君ヶ畑のご紹介です。

▼木地師資料館(アクセス)
滋賀県観光情報(びわこビジターズビューロー)
※大皇器地祖神社・金龍寺へのリンクも掲載されています。

▼君ヶ畑の木地師・小椋さんのfacebook
工房の隣にギャラリーがあり、連絡すれば見学できます。
木目を活かした素晴らしい作品で、実物も息を呑むような美しさでした。
※工房のfacebookはこちら⇒ろくろ工房君杢kimimok(きみもく)

▼蛭谷の木地師・北野さんのfacebook
木地師資料館手前の道路沿いにお店があり、体験教室もされています。
11月より作品を「筒井ろくろ」と名づけて活動していくとのお話でした。
※工房のfacebookはこちら⇒木工 きたの