伊吹の荒ぶる神6(中山道・柏原宿から関ケ原へ~柏原から寝物語の里、今須宿、不破の関跡を歩く<前編>)~近江山河抄の舞台を歩く(68)


伊吹山の麓の柏原(かしわばら・滋賀県米原市)は、岐阜の関ケ原と8km程しか離れていない。江戸時代、中山道・柏原宿の名物といえば「伊吹もぐさ」だった。
江戸時代の柏原宿には、最盛期に10軒のもぐさ屋があったといわれている。
現在はJR柏原駅から西へ10分ほどのところに、「伊吹堂亀谷佐京商店」一軒が残るのみ。

かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを 藤原実方
百人一首で有名なこの歌は、近江の伊吹山ではなく、下野の伊吹をよんだともいわれる。
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前記の歌によまれた「さしも草」は、もぐさのことで、伊吹山で採れるよもぎ(もぐさの原料)は特別いいとされてきた。下野の伊吹山も、もぐさの産地ということだが、それは近江の山の名を踏襲したのであろう。山麓の柏原には、「伊吹堂」という古い看板をかけたもぐさ屋があり、どっしりとした旧家の構えに、往年の宿場の名残りを止めている。-白洲正子『近江山河抄』「伊吹の荒ぶる神」

亀谷佐京商店は寛文元年(1661)の創業で、現在の建物は文化6年(1809)の築造だという。商店として営業されているため、観光施設としての公開はされていないのでご注意を。


もぐさ店の少し手前にあるのが、柏原宿本陣跡である。
案内板の下側には、徳川14代将軍家茂が第二次長州征伐の途上に泊まったと書いてあった。

米原観光ボランティアガイド協会さんにいただいた資料によれば、文久元年(1831)10月24日、皇女和宮が将軍家茂に嫁ぐ際、柏原宿本陣に泊まったという記録がある。お供の者は4000人超、4日にわたる行列で、その間に「長持3竿半分」のもぐさが売れたという。

「長持の一般的な大きさは、長さ8尺5寸(約174cm)前後、幅と高さは2尺5寸(約75cm)」ウィキペディア)というから、大人数で複数買い求めたのだろう、当時の繁盛振りが伺える。


柏原駅へ戻り、今度は東の方向(関ケ原)へ向かった。
左手にJR(東海道本線)と伊吹山を見ながら、旧中山道を歩いていく。


柏原の集落のはずれ(野瀬)で、「照手姫笠地蔵(てるてひめかさじぞう)」に出合う。中世の仏教説話 『小栗判官照手姫』 にまつわる地蔵だという。

常陸国(茨城県)小栗の城主、小栗判官助重が毒酒を飲まされ危篤になるが、餓鬼阿弥となって一命を取り留める。人間に戻るため、箱車に乗せられて、熊野めざして東山道を行くことになる。

愛妾の照手姫は、夫とは知らずに、青墓から大津まで人々と一緒に懸命に箱車を引いていく。野瀬の地で、路傍の石地蔵に自分の笠を掛け、一心に祈ると、地蔵は次のお告げをした。
『立ちかへり 見てだにゆかば 法の船に のせ野が原の 契り朽ちせじ』

熊野の湯で療養した小栗判官は平癒し、当地に石地蔵を本尊とする「蘇生寺」を建立した。のちに慶長の兵火で寺は消失し、石の地蔵だけが残ったと伝わっている。(案内板より)
照手姫が笠を掛けたという笠地蔵は、上の写真右側の小さな地蔵だと伺った。


旧・東山道(とうさんどう)の道標があった。街道としての東山道は、中山道の前身にあたる。
東山道は古い街道名だと思っていたが、調べると律令時代の行政区分の意味も持っていた。行政区分の名前である同時に、東山道の地を通る街道を指すようになったらしい。

古代から中世に、近江から美濃・信濃・上野(群馬県)・下野(栃木県)・武蔵(埼玉県等)を経て、陸奥(福島県、宮城県、青森県、岩手県、秋田県北東部)に至るのが、東山道である。江戸時代になって五街道が整備された際、東山道は中山道・奥州街道などに再編されている。

前回(6月)にご紹介した滋賀県蒲生郡竜王町の「鏡」も、東山道の宿場のひとつだった。源義経は鏡の宿で元服し、鎌倉の兄・頼朝の下へ向ったと伝えられる歴史の道である。


旧中山道を、柏原から長久寺へと向かう。
長久寺(ちょうきゅうじ)は、滋賀県米原市と岐阜県との境にある集落である。
長久寺にある「寝物語の里」は、近江(滋賀県)と美濃(岐阜県)の境界にある場所だ。
国境の小さな溝を隔てて並ぶ旅籠に泊まった旅人が、壁越しに話をしたという伝承がある。

番場の宿から、醒ヶ井、柏原を経て、中山道の旧道を行くと、「寝物語の里」に来る。近江と美濃の境の宿で、両国の人々が壁ひと重をへだてて、寝物語をしたというので知られている。不破の関は、ここから近い。-白洲正子『近江山河抄』「伊吹の荒ぶる神」


寝物語の里。伝承どおり、「滋賀県」と「岐阜県」の境には、小さな水路(溝)が残っている。

米原観光ボランティアガイド協会さんからいただいた資料によれば、江戸時代、近江(滋賀県)側に20軒、美濃(岐阜県)側に5軒あったといわれている。
当時、近江側には「近江屋」、美濃側には「両国屋」という茶屋があった。
「両国屋」が刷った「寝物語之里由来」には、源義経にまつわるこんな話が書いてあったという。

源義経が(今度は)兄頼朝に追われて東国を去った際、主の後を追いかけてきた義経の家臣・江田源蔵広成が、当地の宿の主と寝物語をしていた。隣国の宿に泊まっていた義経の恋人・静御前が、偶然会話を耳にして、二人はめでたく再会。翌朝、二人で義経を追って旅立ったといわれている。

ご案内いただいたボランティアガイドさんからは、こんな話を伺った。
江戸時代、「美濃、尾張」に行く旅人は、美濃に入ってわらじを近江に投げ返したという。「身の終わり」と音が同じで縁起が悪いことから、国境で験担ぎをしたらしい。


寝物語の里(滋賀県側・滋賀県米原市長久寺)。
柏原から長久寺まで、中山道の宿場町の面影を残す、落ち着いた町並みが続いている。


寝物語の里(岐阜県側・岐阜県不破郡関ケ原町大字今須)。
地元の方に、県境ならではの話を聞かせていただいた。
岐阜の中で今須だけが、中部電力ではなく関西電力の供給区域になっているとのこと。
今まで何気なく見ていた電柱が、特別な感慨を持って見えてくる。

岐阜に入ると、駐車場にある車のナンバーが、一気に岐阜と名古屋ナンバーに変わった。
滋賀ナンバーは見当たらない。先程まで滋賀の車ばかりだったので、強く印象に残った。
こういったことを肌で感じられるから、境界を歩いて超えるのは面白い。


岐阜県不破郡関ケ原町大字今須に入る。今須の交差点を渡ると、「車返しの坂」がある。
坂の上には地蔵堂(車返し地蔵尊)があり、高台から中山道と東海道本線がよく見える。
この坂の名前には、面白い由来がある。

南北朝時代、歌人の二条良基(にじょう よしもと)が京都から牛車に乗ってここまでやってきた。「不破の関」が荒れ果て、関屋のひさしから漏れる月明かりが興味深いと聞いたからである。
ところが、不破の関では、都から高貴なお方が来ると聞いて屋根を直してしまった。
坂を上る途中、その話を聞いた良基は引き返してしまったいう伝承から、「車返しの坂」という。


中山道から少し外れて、今須八幡神社に立ち寄った。目印はこの常夜灯である。
ボランティアガイドさんの話では、この常夜灯は今須八幡神社の常夜灯として置かれたもの。
常夜灯の右脇にある小道を奥へと歩いていくと、集落を抜けて名神高速道路の近くに出る。名神と逆方向へ川沿いに少し歩くと、川の上に朱塗りの立派な橋が架かっている。
その橋を渡ると、見事な本殿がある。


今須八幡神社(岐阜県不破郡関ケ原町大字今須152)。
創建は暦仁元年(1238)で、相模国より鎌倉三熊野権現の一社を勧請したことに始まる。
本殿は嘉永2年(1849)に再建されたという桧皮葺きの一間社流造り。関ヶ原町重要文化財。


今須八幡神社境内から参道の橋を見たところ。不思議な雰囲気がある橋だった。


中山道まで戻る途中、名神高速道路の向こうに小さく見えていたのが伊吹山。
どんどん伊吹が遠くなっていく。ここから先、伊吹を見ることはなかった。


中山道に戻り、江戸時代の常夜灯の前を通り、今須宿の本陣跡・脇本陣跡に着いた。
関ケ原今須活改善センターの前が本陣跡で、ここでちょうどお昼の時間になった。
センターの道路向かいには公衆電話とトイレがあって、ハイカーにはありがたい。
ガイドさんと地元のご好意で、近くの妙応寺の境内で、持参したお弁当を食べた。

9:50頃柏原駅を出て、10時にもぐさ屋さん、10:48寝物語の里、11:11車返しの坂、
11:17今須八幡神社の常夜灯、11:24今須八幡神社、11:45今須宿本陣跡・脇本陣跡。
ご参考までに。(撮影日:2013年11月8日)

 

次回予定:今須宿から不破の関跡、関ヶ原駅まで歩きます。