あかねさす 紫野3(近江日野商人と三方よし、蒲生氏郷と会津若松ゆかりの若松の杜跡、馬見岡綿向神社と日野祭:滋賀県蒲生郡日野町)~近江山河抄の舞台を歩く(66)


日野へ行くのは、なかなか大変だった。
滋賀県蒲生郡日野町は、琵琶湖の南東に広がる「蒲生野」の、一番奥に位置する。
かなり広い町なので、県境に近い熊野地区(写真)まで行くとなると、どうしても滞在が短くなる。
日野の風景をあますところ捉えたくて、季節を変えて何度か通うことになった。

前々回、「あかねさす 紫野1」の中で、飛鳥時代の歌人、額田王のことを書いた。
「茜さす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る」(額田王)
この歌が詠まれた頃の後の日野について、白洲正子さんは次のように書いている。

このあたり一帯は未開の原野で、日野牧と呼ばれた朝廷の牧場が新設され、・・・天智九年には、百済の王族と貴族七百余人が移しおかれ、『日本書紀』には、天皇自身も「蒲生野のヒサノ野(日野の古名)に幸して、宮地(みやどころ)みそなはす」とあり、都を遷す計画もあったらしい。
・・・もし遷都したとすれば、奈良時代の歴史はかなり変っていたはずである。
日野はそれから幾星霜を経て、近江商人の根拠地となった。-白洲正子『近江山河抄』「あかねさす 紫野」


近江商人のふるさとは3箇所ある。近江八幡、五個荘(東近江市)、そして日野である。
近江商人とは、近江(滋賀)を本宅(または本店)として他国へ行商した商人をいう。
中でも日野商人は、江戸時代に主に関東で活躍し、日野椀(後に置き薬)の行商で栄えた。
日野の特徴は、千両貯まれば新しい店を出すという小型店経営で、現代のコンビニに通じる。
地元採用・単身赴任を貫くスタイルは、戦前まで続けられていたという。


写真の「日野まちかど感応館」は、「旧正野薬店」が観光協会の建物として使われている。
看板に掲げられた「萬病感應丸」は動悸・息切れ・気付けの薬で、現在も同名の薬がある。(地元の日野薬品工業で「正野萬病感應丸」として製造・販売されている。)

近江商人といえば、「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)の理念で知られる。売り手の都合だけでなく、買い手(お客さん)、地域(社会貢献)を考えて商いをするという理念。
なかなか難しいことだが、昔の時代の”世間よし”は、かなりスケールが大きい。
たとえば、橋を架ける。治水や治山を行う。寺社や学校に寄付する。
日野商人の中井家の場合、1815年に瀬田の唐橋の再建に私財2000両を寄付している。
(後に1000両を追加して、合計3000両を寄付。)逢坂山の車石を寄付した話も残っている。


日野商人をうかがい知ることのできる場所といえば、近江日野商人館の建物だろう。
近江日野商人館(写真)は、山中兵右衛門(ひょううえもん)さんの自宅を、町へ寄贈したもの。
スタッフの方の話では、山中家の当主が昭和11年(1936年)に地元の職人に作らせた家だという。不景気の時代に凝った木材や建築を注文し、何年かかってもいくらかかってもいいと伝えたそうだ。いわば公共工事の一種といっていい。地元に雇用を生み、技術の伝承に役立つようにしたのだ。
和洋とりまぜた見事な近代建築で、建具・廊下・客室など、職人の技術の粋が光る。

ちなみに、入り口を入るとすぐ電話室があって、当時は珍しかった電話が迎えてくれる。
ジブリ映画「となりのトトロ」を見た子どもさんは、これが電話だとすぐに分かるとか。
近江日野商人館を訪ねて感じたのは、精神的なスケールの大きさだった。
豪傑を生む土壌というのだろうか、ダイナミックさと言ってもいいかもしれない。


日野が生んだ名君といえば、蒲生氏郷(がもう うじさと)だろう。
蒲生氏は戦国時代に当地を治めた武将で、日野の城下町の整備を行った一族である。
1523年に中野城を築き、天文年間(1532~1554年)初頭に蒲生定秀が町割りを行ったと伝わる。

蒲生氏郷は早くから織田信長に見込まれた人物で、信長の娘(冬姫)と結婚している。
日野では楽市楽座を開き、蒲生氏の氏神である馬見岡綿向神社を厚く保護している。
本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕え、伊勢松阪城主を経て、陸奥会津の黒川城主となった。

ウィキペディアによれば、蒲生氏は藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという。
藤原秀郷といえば、近江では、三上山の百足退治をした「俵藤太秀郷」の伝説で知られている。


日野の馬見岡綿向神社の参道周辺には、「若松の杜」があったといわれている(写真)。
この「若松の杜」にちなんで、蒲生氏郷は、会津の黒川を「若松」へと改めた。
現在の福島県会津若松市である。ちなみに、黒川城とはあの会津若松城だ。
鶴ヶ城とも呼ばれるのは、氏郷の幼名(鶴千代)と蒲生家の家紋(舞鶴)にちなむものだという。
会津若松が、日野・近江に縁が深い場所だったことを知って、近江出身者としてとても驚いた。

氏郷は会津でも楽市楽座を導入し、商業の発展に努め、会津藩の発展の基礎を築いた。
会津の愛らしい郷土玩具「起き上がり小法師」は、氏郷が広めたと言われている。

人柄の偲ばれる逸話の多い人物で、キリシタン大名でもあり、千利休の高弟(利休七哲)の一人。
戦国武将としては珍しいことだが、生涯、側室を置かなかったという。享年40。
日野を歩くと、「NHK大河ドラマの主人公に蒲生氏郷公を」という声をよく聞く。


馬見岡綿向神社(うまみおか わたむきじんじゃ)。
由緒に、鈴鹿山脈の綿向山に祀った綿向大神(天穂日命)を、796年に現在地に遷したとある。
いわゆる里宮にあたり、現在も奥宮は綿向山(標高1,110m)の頂上にある。




蒲生家の氏神として庇護を受け、江戸時代には日野商人が数々の寄進を行っている。
5月2日・3日の日野祭は、綿向神社の春の例祭で、湖東地方最大の春祭りである。


日野の町を歩くと印象に残るのが、日野祭を見るための独特の切り窓「桟敷窓」である。
日野祭のために板壁に穴を開けて、年に一度祭りを見物する。

▼日野祭の写真をこちらで掲載しています。
http://katata.info/2014/05/hino-syakunage-matsuri/

今も町内を歩いてみると、どっしりした構えの家が立並び、白銀町、鍛冶町、呉服町、紺屋町、塗師町などの町名に、昔の繁栄を偲ぶことができる。日野町の特徴は非常に細長いことと、一軒一軒の家の塀に、格子ののぞき窓がついていることで、これは綿向神社の祭礼を見るためにしつらえたものと聞く。その神社は、長い町の東のはずれにあり、黒々とした森を背景に、宏壮な社域を占め、町全体が神社を中心に生活を営んでいることがわかる。-白洲正子『近江山河抄』「あかねさす 紫野」


馬見岡綿向神社の近くで、民家の向こうに綿向山が見えていた。左が竜王山、右が水無山。
今回の「あかねさす 紫野」シリーズは、蒲生野の二つの竜王山を主題にしている。
そのひとつが、前々回ご紹介した雪野山(竜王山)。もうひとつが、日野の竜王山である。

[馬見岡綿向]神社の背後・・・は、・・・南向きの気持のいい高台で、のどかな平野のかなたに、神社の森と、日野の町並みを見はるかす風景は、一種不思議な暖かみを感じさせる。農耕民族の「共同体」という言葉は、こういう所へ来てみないと、ほんとの在り方がわからない。それは空間的な意味だけでなく、時間的にも、過去と現在が渾然ととけ合って、一つの世界を形づくっている。-白洲正子『近江山河抄』「あかねさす 紫野」

 


次回予定:竜王山のふもと・西明寺と、三重県との県境に近い熊野を訪ねて。
熊野では、天然記念物となっているヒダリマキガヤの木(写真中央)に出会うことができた。(つづく)

 

☆日野へのアクセス(公共交通機関の場合)
JR草津駅⇒(草津線)⇒JR貴生川駅(乗り換え)・近江鉄道貴生川駅⇒近江鉄道日野駅
またはJR近江八幡駅南口より近江鉄道バス「北畑口」行

☆綿向神社(日野町村井)へのアクセス
近江鉄道日野駅またはJR近江八幡駅南口から、近江鉄道バス「北畑口」行バス「向町」下車。徒歩5分。

※草津線・近江鉄道・バスとも本数が少ないので(一時間に1~2本)、事前にご確認下さい。
[JR]草津線(えきから時刻表)
近江鉄道
近江鉄道バス・日野駅時刻表
近江鉄道バス・近江八幡駅南口時刻表