堅田内湖と地蔵と老ヶ川橋~古絵図で見る堅田(1)


暑い日が続きますね。皆さま、お変わりありませんか。
何か涼しげな写真を・・・と思い、水辺の写真を選んでみました。
今回は久しぶりに、琵琶湖の畔の町・堅田(かたた)からお届けします。
1枚目の写真は、「堅田内湖」(かたた ないこ)から引かれた水路が、町を巡る風景です。
内湖(ないこ)は滋賀県独特の言葉で、琵琶湖と水路で繋がった水域を指します。
有名なのは近江八幡市の西の湖(にしのこ)で、高島市の乙女ヶ池なども内湖です。


堅田を歩くと本当に多いのが、地蔵堂(お地蔵さん)です。
どうして地蔵が多いのか、どうしてその場所に置かれたのか、実はよく分かっていません。
堅田の地蔵は水辺の守り神として、内湖のそばに置かれたと考える研究者の方もいます。

昨年の秋、歴史博物館のイベントで、江戸時代の本堅田村絵図(複製)を見る機会がありました。1677年(延宝5年)に作られたという古絵図で、その当時の堅田は江戸幕府の天領でした。その古絵図を見ると、現在よりもずっと堅田内湖が広がっていたことが分かります。


本堅田(ほんかたた)の居初(いそめ)邸。居初氏庭園は国の名勝になっています。
中世以降、堅田の指導者的立場だった殿原衆(とのばらしゅう)の筆頭が、居初氏です。伊豆神社に置かれた惣村の運営に携わり、堅田の自治や琵琶湖の水運に影響力を持ちました。
御当主のお話では、居初家は当初、伊豆神社のそば(浮御堂の近く)にあったそうです。中世の堅田は、大津・近江八幡と共に、琵琶湖の水運の一大拠点でした。

今回から、居初邸周辺で古絵図に描かれている場所を、数回に分けてご紹介する予定です。
1677年(延宝5年)といえば、1698年(元禄11年)に堅田藩になる少し前の時代です。
その古絵図に描かれていた意外な場所が、本堅田2丁目の「老ヶ川橋」でした。
「老ヶ川橋」の場所については、下の地図をご覧下さい。


堅田駅から堅田内湖へ直進し、内湖大橋を渡って右へ進むと、福聚院というお寺があります。福聚院と堅田漁港が出会う角にあるのが「老ヶ川橋」です。


老ヶ川橋。延宝5年の古絵図に「おいっ川」とあるのが、この場所です。
古絵図を見ると、橋の前は琵琶湖、後ろは内湖で、橋の両側に一軒ずつ民家があるだけです。
古絵図の中の本堅田は、水路が張り巡らされ、まるで水の上に浮かんでいるようです。


老ヶ川橋のそばには、「小番城自治会」の広報板があります。
「小番城」は「こばんぎ」と読み、室町時代の城跡(小番城城遺跡)があった地区です。
現在は城跡は残っていないようですね。

☆参照資料⇒大津市の小番城城遺跡が掲載されている資料を知りたい。
(国立国会図書館 レファレンス協同データベース)


かつて老ヶ川橋から堅田駅のほうへ戻ると・・・内湖大橋の向こうに、観覧車が見えていました。
2013年9月より解体されて、その後ベトナムへ行った大観覧車「イーゴス108」です。
写真をよくご覧頂くと、ゴンドラ(乗りカゴ)の部分が取り外された状態なのが分かります。
古絵図をヒントに本堅田を歩いたのが2013年9月で、この頃よく話題になっていた観覧車でした。
2006年から撮影で堅田を歩き回った筆者にとっては、とても懐かしい風景です。
この角を左へ曲がって内湖大橋を渡ると、後はまっすぐ、堅田駅へ続いています。

(次回へつづく)