紫香楽の宮9(山岳信仰の山、田上山に登る<後編:矢筈ヶ岳~御仏河原・富川道>)~近江山河抄の舞台を歩く(60)


矢筈ヶ岳(562m)の頂上からの眺め。ここまでの山道に台風18号の影響は殆どなかった。
同じ湖南アルプスの金勝に台風の被害が出ていたので、田上のことが気になっていた。
今回は、滋賀県南部に位置する田上山(たなかみやま)の現状を中心に掲載します。


太神山と矢筈ヶ岳の分岐点にあった看板に、台風の被害状況が掲載されていた。
2013年秋の台風18号により本願谷で土砂崩れがあり、通行止めになっている。
太神山へ向かう東海自然歩道では、道の脇に崩落が一箇所あったが、通行に支障はない。太神山から矢筈ヶ岳へは普通に歩く事ができた。問題は矢筈ヶ岳の先だった。


矢筈ヶ岳から御仏河原へ向かう山道は、御覧のような倒木が何箇所か見られた。
写真は倒木が数メートルに渡って道を塞いでいた箇所で、下をくぐって通り抜けた。

笹間ヶ岳との分岐点は、道が川になっていた上、がれた道(小岩の上を歩く状態)だった。笹間ヶ岳はもともと道の状態が良くないので、現状で(特に冬は)おすすめできない状況。今回は予定通り、御仏河原からそのまま富川道を下った。


御仏河原の「御仏堰堤(えんてい)」。
高さ4.3m、堤長9.6mで明治20年(推定)に造られた滋賀県最古の空石積み堰堤。
緊張して歩いてくると、穏やかな場所にほっとする。しばらくここで休憩する。


御仏堰堤の隣に広がっていたシダ。幻想的な風景が続く。


富川道は沢の水が凍り、道は雪で覆われていた。
沢の脇の岩場を歩いて通り抜ける。岩場も水溜りが凍っていて、注意が必要。


田上山独特の花崗岩に囲まれながら歩く。
この場所の左には川が流れていて、台風18号によると思われる土砂崩れが見えていた。
その後は、がれた道が続き、人の背の高さくらいの陥没箇所が続いていた。
このように、富川道は総じておすすめできない状況。
太神山まで行って同じ道を戻るか、矢筈ヶ岳まで行って引き返すルートをおすすめします。


富川道を下りてきて、再び出会った迎不動(むかえふどう)。


今回のコース。アルプス登山口→不動寺・太神山→矢筈ヶ岳→富川道。

コースタイム(2013年12月末)
9:37天神川2号堰堤付近→10:40泣不動→10:48分岐点→11:20不動寺参道入り口
→不動寺→太神山→不動寺境内で昼食→12:20不動寺出発→12:40分岐点
→13:44矢筈ヶ岳→14:24分岐点(富川道)→15:20天神川沿いの車道に出る

太神山(不動寺)へは、アルプス登山口のほか、新免、信楽から登るルートがある。
アルプス登山口へは、JR石山駅から帝産バス(アルプス登山口行き)で約25分。
新免へは、同じくJR石山駅から帝産バス(田上車庫行き)が出ている。

▼帝産バス石山駅の時刻表
http://www.teisan-qr.com/jikoku/stop/254.php

▼三上・田上・信楽県立自然公園(滋賀県HPへのリンク)
http://www.pref.shiga.lg.jp/d/shizenkankyo/furusato/park/mikami.html

 


付記:太神山(不動寺)には信楽ルートが残っているという事実の持つ意味について

前回、太神山(不動寺)には信楽から登るルートが残っているという話を書いた。
信楽(滋賀県甲賀市信楽町)は、かつて、聖武天皇が紫香楽宮を置いた場所である。
紫香楽宮を諦めた後、聖武天皇は奈良に平城京を置き、東大寺と大仏を造営した。
奈良の鬼門に建てられたのが、滋賀県栗東市の金勝寺(こんしょうじ)である。
田上山の山続きにある金勝山(こんぜやま)の山中に、ひっそりと寺が建っている。

金勝寺は天平5年(733)、聖武天皇の勅願により、良弁(ろうべん)によって開かれた。
良弁は近江出身で、奈良の大仏を造営した功績で東大寺の初代別当となった僧である。
東大寺の起源は天平5年(733)、若草山麓に創建された「金鐘寺」であるというから驚きだ。
聖武天皇は、信楽に造ろうとした大仏を、東大寺に造っているという経緯もある。

「(東大寺の)三月堂は、いわば金勝山の再生であり、
奈良の東山を、金勝山に見立てたぐらいのことは言えると思う。」

白州正子さんは『近江山河抄』の中で、持論をそう述べている。
つまり、金勝寺は東大寺の原型になったと思われるような特別な寺なのだ。

金勝寺正面参道と仁王門
金勝寺(写真)と奈良とのつながりは深く、8世紀中頃までに興福寺の仏教道場となった。
弘仁6年(815)、嵯峨天皇の勅願により、興福寺の僧・願安(がんあん)が伽藍を整えた。
その後、比叡山の勢力が入ってきて、平安時代後期には天台宗の寺になっている。

金勝寺の旧正面参道は奈良の方向を向いており、信楽に通じていたといわれている。
ところが、金勝寺の現参道はとても短いもので、かつてのように信楽へ続いていない。
他方で不動寺は、信楽へ続く参道が残っている。この違いはどこから来るのだろうか。

田上山は、藤原京だけでなく、平城京造営に必要な木材を切り出した場所でもある。
金勝寺(金勝山)同様、この地もまた奈良の影響圏にあった。
奈良の影響力が薄れた後、さして離れていない信楽との関係が変化したのはなぜか。

金勝寺は「西の比叡山、東の金勝寺(こんしょうじ)」と言われた湖南仏教の中心地だった。比叡山が京都の鬼門に当たり、京都を守護するのと対照的である。
官営の寺ゆえに、都が京都に移るに伴い、奈良・信楽との関係も変化したのではないか。

他方、不動寺は、太神山に不動寺を開いたとされる円珍(智証大師)と不動明王を祀る。
民間の信仰は、政治とは関係ないものである。信楽との繋がりは変わらなかったのだろう。
田上不動(不動寺)に対する地元の方の信仰は厚い。この日も参道の掃除をされていた。

小屋谷観音
小屋谷観音(こやがたにかんのん)。金勝寺の南、旧正面参道沿いの山中にある。
この写真は分かりやすいように、横倒しになっている石仏を本来の姿で撮影している。
本来はもっと山の上にあって、何かのはずみで旧参道近くの岩の上に落ちてきたらしい。
そのおかげで再び人目に触れるようになった。旧正面参道の守り神だったと考えられている。

旧正面参道の入り口は良弁杉の前にあるが、現在はやや荒れた山道になっている。
地元の方の案内がないと行くのは困難で、あまり知られているコースではない。
小屋谷の先で栗東信楽線(車道)に突き当たるため、道の先が続いているかは不明だ。
その点でも、かつての金勝寺と信楽の関係を彷彿させる、不動寺・信楽ルートは貴重だ。

不動寺の石段
良弁は僧侶であると同時に、公共工事の親方のような存在であったといわれている。
「石山、石部、岩根など、良弁には石と縁のある地名がつきまとう」と白州さんは指摘する。
紫香楽宮と良弁の文化圏は、思っている以上に広い。その手がかりは各地に点在している。田上山は、金勝山と併せて間違いなく紫香楽宮を支えた功労者である。

紫香楽の宮の背後には、莫大な勢力と、財産が蓄積されていた。奈良の大仏は、忽然と出現したのではない。三千世界を象徴する毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)の理想は、金勝山を中心とする信仰と、歴史の層の厚みによって、はじめて達成することを得たのである。肝に銘じて、そのことを知っていたのは、或いは良弁と聖武天皇の二人だけであったかも知れない。-白洲正子『近江山河抄』「紫香楽の宮」

 

▼紫香楽の宮シリーズ バックナンバー
紫香楽の宮1(瀬田川と石山寺)
紫香楽の宮2(奈良平城京の鬼門・金勝寺と狛坂磨崖仏/知られざる金勝の石仏たち)
紫香楽の宮3(かくれ里「金勝」。大野神社から金勝寺里坊、金胎寺から金勝寺へ)
紫香楽の宮4(聖武天皇と良弁僧正ゆかりの寺、安養寺と西応寺)
紫香楽の宮5(青もみじの季節に行く、常楽寺と長寿寺)
紫香楽の宮6(正福寺と廃少菩提寺)
紫香楽の宮7(紫香楽宮跡/宮町遺跡と内裏野地区)
紫香楽の宮8(山岳信仰の山、田上山に登る<前編:不動寺と太神山>)


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