日枝の山道5(比叡山横川から飯室谷まで、千日回峰行の道を駆け下りる。そして安楽律院へ)~近江山河抄の舞台を歩く(56)


白洲正子さんの『近江山河抄』を読んだ時、心に残った一節がある。

「飯室谷へは、坂本の西教寺からも、仰木からも車で行けるが、
少々苦しくても、横川から下ってみないことには半分の価値もない。」

横川(よかわ)といえば、比叡山延暦寺の一番奥、深い山の中にある。
飯室谷へは千日回峰行の道の一部になっているので、撮影は難しいだろうと思っていた。
ところが、この道は、ハイキングコースとして一般にも使われていることが分かった。

とはいえ、東海自然歩道からは外れており、このルートで比叡山に登る人は多くはない。
横川から飯室谷へは、標高差400m弱の山道を一気に下ることになる。
調べると、この道は「元三大師道」の一部で、横川側の登山口は恵心院の奥だと分かった。
安全を考えて、紅葉シーズンの天気のいい日曜の昼間を選び、坂本ケーブルで比叡山へ。東塔・西塔を拝観後、バスで横川へ向かった。


写真は、比叡山東塔にある根本中堂。

神護景雲元年(七六七)、伝教大師最澄は、日枝の神山の麓で生れた。石の鳥居の傍にある生源寺が、その生誕の地といわれている。父は・・・歌枕で有名な三津の浜(下阪本)の小豪族で、信心ふかい人格者だったらしい。・・・

二十歳の時、[最澄は]突然比叡山の奥に籠ってしまった。延暦四年夏のことで、東大寺の戒壇院で、受戒した最澄は、鑑真和尚の理想をまっとうすべく、己れの道を開こうと志したに違いない。登山の経路もわかっていて、日吉大社に参拝した後、大宮川を遡り、落合から左の谷合いを伝って、虚空蔵尾に達した。・・・現在根本中堂が建っているあたりだと聞いている。

その道順だけ辿っても、行き当りばったり登ったのではないことは明らかである。・・・藤原武智麻呂が登山したという記録もあり(懐風藻)、天智天皇が大津の宮で、西北のかたに仙人を夢みたのも、山岳信仰の行者たちが籠もっていたことを示している。-白洲正子『近江山河抄』「日枝の山道」


写真は、比叡山横川にある恵心院。
恵心僧都(源信)は『往生要集』を著したことで知られる僧で、堅田浮御堂の開祖でもある。

恵心僧都が感得したのは、横川であるとも、飯室谷の安楽律院とも、坂本の聖衆来迎寺だったとも伝えている。が、ひとたび感得すれば、二度と消え失せる映像ではないから、どこと定めるにも及ぶまい。それより彼が横川から飯室谷、さらに平地の来迎寺へと、だんだんに下って来たことの方に私は興味を持つ。それは日枝の神霊が、奥宮、里宮、田宮と順々に降りて来るのに似なくもない。・・・最澄が日枝の山霊に救いを求めたように、源信の中にも、古代の神が辿った道が根づよく生きていたに違いない。-白洲正子『近江山河抄』「日枝の山道」


恵心院の奥に日本生命の慰霊塔があり、その入口脇に小僧さんの看板がある。
それが、横川から飯室谷への登山口の目印だった。


横川から飯室谷へ下る道は、最初は獣道のようで細くて険しい道だった。
けれど、駆け出してしまえば、不思議と怖くなかった。
千日回峰行の道だからこそ、失礼な撮り方はできない。不思議な緊張感が辺りを包む。


道は次第に広くなり、途中に休憩所がある。中盤以降、急カーブの砂利道が続いた。
そして、元三大師道の石標。白洲正子さんもこの道を通ったことは、次の記述で分かる。

飯室谷へいっきに下る急坂がある。「元三大師みち」という石標があり、二キロあるというが、またたくうちにすべり降りてしまう。うっそうと茂った木立の中に、不動堂と、慈忍和尚の廟が建ち、私が行った時には、真赤な落椿が、苔むした石垣を染めていた。-白洲正子『近江山河抄』「日枝の山道」

飯室谷へは、坂本の西教寺からも、仰木からも車で行けるが、少々苦しくても、横川から下ってみないことには半分の価値もない。観無量寿経も法華経も、私の理解を超えるが、近江の自然は、理屈ぬきで、浄土の世界へと誘ってくれる。-白洲正子『近江山河抄』「日枝の山道」


山道が終わって、近代的な建物が見えた。そして「横川元三大師道への道」の石標。
それが初めて見る飯室谷だった。横川から下ること、40分。一本道だった。
しばらく滞在し、他のお堂も参拝させていただいた。


飯室谷からまたすぐに山の中に入る。安楽律院まで、一転して上りが続く。


安楽谷の入口(結界)が見えてきた。
安楽谷は飯室谷の別所で、恵心僧都も隠棲していた場所である。


江戸中期以降、安楽谷はとても戒律の厳しい所だったという。
昭和になって放火で寺院は殆ど焼失してしまい、現在は無住の寺となっている。
しかし、見事な石畳の参道と、雰囲気のある境内が今もそのまま残っている。
映画「るろうに剣心」や大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」のロケにも使われた。

恵心僧都が隠棲した安楽律院は、飯室谷のつづきの安楽谷にあり、谷から山へかけて、石畳の参道がつづいている。琵琶湖も、三上山も、横川と同じ位置に眺められ、僧都が常に湖水の自然とともに生活していたことがわかる。-白洲正子『近江山河抄』「日枝の山道」


安楽律院の紅葉は見事だと聞いていた。まさに別世界だった。


先ほどの写真のお堂の前から眺めた風景。
この裏手には石段が続き、建物はまだまだあるようだった。境内は思った以上に広い。


苔むした石垣の上に、たくさんの石仏。


かつてこの地で修行していたという僧侶たちの事を思った。


安楽谷からさらに下界へ降りると、坂本の町、そして琵琶湖が眼前に広がっていた。
里に下りて来た安心感、琵琶湖の見える開放感は、ひとしおだった。
横川、安楽谷、下阪本と下ってきたという、恵心僧都の生涯を思った。
比叡の山から下りて来たからこそ、この風景がかけがえのものに思えたのではないだろうか。そこには人の生活があって、山にいたからこそ里の美しさが分かる。

一本道の車道を歩いていくと西教寺の前に出た。ここに最寄のバス停があるが、また歩いた。道は西教寺の紅葉を見に行く人であふれていた。さらに歩いていくと、日吉大社の前に出る。西教寺の門前と日吉大社の境内を撮影させていただいた後、京阪坂本駅へと向かった。


日吉大社の参道は、一面の紅葉だった。


鳥居の向こうに、白洲正子さんが「日枝の神体山」と呼んだ八王子山が浮かんでいた。
私にはまるで、白洲さんの言う「日枝の山霊」が、里に下りて来て作った町のように思えた。
もちろん、坂本は比叡山とは違うし、比叡山ほど厳格なところではない。
けれど、里の優しさと、神聖さを併せ持つ、とても美しい門前町である。

山王祭・花渡り式-4
⇒バックナンバーより、日枝の山道1(日吉大社と山王祭)

坂本といえば、穴太積の石垣、町を巡る大宮川の水路、約50ある僧坊に社寺、町並みと緑。

穴太積の石垣(滋賀院門跡)
日枝の山道2(穴太積の石垣、坂本の里坊、慈眼堂の石仏、日吉東照宮)

旧竹林院庭園-2
日枝の山道3(延暦寺の門前町、坂本。旧竹林院~山の辺の道~西教寺)

十界図の四幅から十三幅
日枝の山道4(聖衆来迎寺と十界図の虫干し)

比叡山は、門前町・坂本とあわせて一つの完結した世界を作っている。
奥深い横川から下ってきたからこそ、一番感じたことだった。
(撮影日:2013年11月24日)

次回:比良の暮雪9(葛川明王院/堅田浮御堂の紅葉)の予定です。


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2015年12月追記:比叡山千日回峰行のルートについて

調べておられる方が多いので追記します。
無動谷回峰行(無動寺明王堂を起点終点とするルート)・・・10月21日未明に「堂入り」を達成した釜堀浩元師が歩いておられるのは、このルートです。
飯室回峰行(飯室谷を起点終点とするルート)・・・故・酒井雄哉大阿闍梨が復刻したルートです。今回掲載したのは飯室回峰行のうち中尾坂と呼ばれる区間の写真です。
西塔回峰行・・・今は途絶えたと言われるルートです。

以下は、千日回峰行の主要場所の一つである日吉大社(比叡山延暦寺の守護神である神社)の関係者から伺った話です。千日回峰行のルートや祈りをささげる場所は師匠直伝で伝わっているそうです。そのため、無動谷を拠点にしているか、飯室谷を拠点にしているかでルートが異なります。2つのルートを一緒にして呼ぶことが多いので、ご注意下さい。千日回峰行のルート(地図)はこちらの本に掲載されています。