鈴鹿の流れ星1(滋賀県甲賀市土山町:垂水斎王頓宮跡、倭姫命の伝承と甲可日雲宮、田村神社)~近江山河抄の舞台を歩く(44)

甲賀市土山町頓宮
国道1号線を鈴鹿峠から滋賀県に入ると、そこは甲賀市土山町である。
鈴鹿山脈の南端に位置する土山は、東海道五十三次の宿場町。お茶所としても知られる。土山町頓宮(とんぐう)に入ると、「頓宮大茶園」と「垂水斎王頓宮跡」の表示が見えてくる。

垂水斎王頓宮跡と茶畑(甲賀市土山町頓宮)
国道1号線脇の茶畑の中にあるのが、垂水斎王頓宮跡(たるみ さいおう とんぐうあと)。
かつて土山町には、斎王が伊勢に赴く際、みそぎのために泊まる仮宮(頓宮)があった。

斎王(斎宮)とは、伊勢神宮に仕える未婚の内親王または女王をいう。
飛鳥時代以前から存在していたが、天武天皇の時代に正式に制度として確立する。
歴代の天皇が即位するたびに占いで選ばれ、通常は天皇の崩御・譲位まで務めたという。

886年(平安時代)以降、斎王が選ばれると京都から伊勢まで五泊六日で群行した。
近江の国では勢田・甲賀・垂水の三ヶ所、伊勢の国では鈴鹿・壱志の二ヶ所で宿泊した。

垂水斎王頓宮跡入口(甲賀市土山町頓宮)
垂水斎王頓宮跡(甲賀市土山町頓宮)
垂水斎王頓宮跡。この頓宮は平安時代にできたもので、昭和19年に国の史跡になった。
頓宮は郡行が終わるとすぐに解体されたので、所在地の特定はかなり難しいという。
垂水頓宮は昭和10年に国の現地調査が行なわれ、頓宮跡だと実証された貴重な場所だ。

垂水頓宮跡保存会によれば、垂水には378年間に31人の斎王が泊まった記録がある。
現在は、写真の建物裏に井戸の跡があり、敷地の周囲には土手が残っている。

あいの土山斎王群行(甲賀市土山町大野)
土山町では、平成10年から顕彰行事「あいの土山斎王群行」が行なわれている。
出発前のみそぎの儀式は、ここでも重要視されている。
(撮影日:2013年3月24日。甲賀市立大野小学校にて、出発前のひとこま)

垂水斎王頓宮跡と甲可日雲宮の林、そして茶畑(甲賀市土山町頓宮)
垂水斎王頓宮跡の敷地裏の道を右へ行くと、茶畑の中に、もうひとつ林がある(写真左)。
甲可日雲宮(日雲神社)の林である。ここも頓宮と縁のある場所だが、案内は出ていない。

斎王の直接の起源とされるのが、倭姫命(やまとひめのみこと)という皇女である。
倭姫命は第11代垂仁天皇の第4皇女で、『古事記』『日本書紀』に登場する。
鈴鹿山脈の北(米原市醒井)には日本武尊の伝承が多いが、日本武尊のおばが倭姫命だ。

式年遷宮で話題の伊勢神宮だが、その内宮を創建したのが倭姫命とされている。
内宮創建に際し、倭姫命は近江の甲可日雲宮(こうかひぐものみや)に4年滞在したという。
紀元前の伝承なので、平安朝の垂水斎王頓宮のほうがずっと後の時代になる。
垂水斎王頓宮と甲可日雲宮の関係について、白洲正子さんは次のように書いている。

[頓宮跡は]野洲川の上流の横田川にそっていて、仮の宮所のこととて何も残っていないが、茶畑に囲まれた見晴らしのよい高台にある。・・・伊勢への道は他にもあるのに、特に野洲川の流域がえらばれたのは、日雲宮との関係によるとしか思えない。-白洲正子『近江山河抄』「鈴鹿の流れ星」

甲可日雲宮(甲賀市土山町頓宮)
↑甲可日雲宮の鳥居をくぐると、すぐに日雲神社の鳥居がある。↓
周囲は「あいの土山マラソン」のコースになっているが、その表記も日雲神社になっていた。ちなみにGoogle Mapでは甲可日雲宮になっている。どちらも呼称なのだろう。

甲可日雲宮(日雲神社、甲賀市土山町頓宮)
いわゆる甲可日雲宮は、一言で言えば「元伊勢」(もといせ)の一つである。
伊勢神宮が三重県伊勢市に鎮座するまで一時的に祀られた伝承地のことだ。
伊勢神宮の母体といっていいかもしれない。

神話の世界をどう捉えるかは難しいが、何かを政治的に美化するということではなくて、ただその根底にあるものをつなげてみようというのが、今回の撮影のスタンスにある。

歴史ある社寺や建造物を撮っていると、自分の理解の次元を越えるものに出会うことが多い。そんな時、神話や伝承は何かの寓話であって、暗示するものがあるように感じる。

神話や伝承の話が好きだと思われることがあるが、私にとっては好き嫌いというよりも、共同体の深層心理を探る一つの手がかりになると思っている。

というわけで、しばらく神話の世界にお付き合い願えれば、ありがたい。

甲可日雲宮境内(甲賀市土山町)
伊勢神宮内宮の祭神は天照大神、つまり、皇室の祖とされる神(皇祖神)である。
第10代崇神天皇の時代まで皇居内に祀られていたが、崇神天皇はその状態を畏れた。
そこで皇女・豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して、天照大神を笠縫邑に移した。(笠縫邑がどこなのかは諸説あり、大和(奈良県)のどこかと考えられている。)

第11代垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)がこれを引き継ぐこととなる。
倭姫命は大和から伊賀・近江・美濃・尾張を経て伊勢に入り、神託を受け天照大神を祀った。これが伊勢神宮内宮の起源だとされている。

この道中で、倭姫命は近江の甲可日雲宮(こうかひぐものみや)に4年滞在したとある。
その後、近江ではもう一箇所、坂田宮(さかたのみや)に2年滞在したとある。

坂田宮の場所に争いはないようで、坂田神明宮(米原市近江町)と推定されている。
しかし、甲可日雲宮の伝承地は、甲賀市と隣の湖南市に、10箇所以上もある。
そのひとつが、垂水斎王頓宮跡そばの「甲可日雲宮」なのである。
そういうわけで土山町を始めとする甲賀市一帯には、倭姫命の伝承が色濃く残っている。

垂水斎王頓宮跡遠景と国道1号線(甲賀市土山町前野)
国道1号線を頓宮(写真)からバスで5分行くと、甲可日雲宮のもう一つの伝承地がある。
(頓宮最寄のバス停:貴生川駅より甲賀市コミュニティバス「土山本線」東前野または白川橋)

田村神社と国道1号線(甲賀市土山町)
国道の向こうに見えているのが、田村神社(土山町北土山)。
実は、この田村神社は、倭姫命をも祭神として祀っている。

田村神社の主祭神は、平安初期の武人であり征夷大将軍となった坂上田村麻呂である。
田村麻呂は鈴鹿山の鬼退治をした功績により、平安時代初期に田村神社に祀られたという。鈴鹿山の鬼が何を意味するのか気になったが、倭姫命とは関係ないようだ。鈴鹿の鬼は、日本武尊の伊吹山の毒矢の話と同様、体制に反対した者のようにも読める。

田村神社二の鳥居(甲賀市土山町)
一の鳥居をくぐると見事な社寺林が広がり、二の鳥居(写真)は神秘的な雰囲気がある。
壮大な社寺林を抜けていくと、まるで森林浴をしているようで、歴史の深さを感じた。
奥に見えている三の鳥居をくぐると社務所があって、さらに境内の橋を渡っていく。

田村神社本殿(甲賀市土山町)
朝の田村神社本殿。
現在の本殿は、2012年の鎮座1200年を記念して、2011年に造替されたばかりだ。

田村神社本殿とご神木(甲賀市土山町)
境内の木々も、また見事だった。

田村神社境内を流れる御手洗川(甲賀市土山町)
田村神社境内を流れる御手洗川で、参拝者は厄除を祈念する。
御手洗川の眺めは、斎王のみそぎの儀式を想起させるのに十分だった。
古来から水の流れが重要視されていたのは間違いない。

田村神社境内を流れる御手洗川(甲賀市土山町)
野洲川の支流・田村川が、田村神社境内のすぐ脇を悠々と流れていた。

[垂水斎王頓宮跡の]すぐそばには田村神社があって、倭姫命と坂上田村麿を祀っているが、田村麿の方は、鈴鹿山の鬼退治の武勲により、後に附加されたといわれている。倭姫は、別名を鈴鹿姫と呼んだといい、この地方とは縁の深い女性であった。-白洲正子『近江山河抄』「鈴鹿の流れ星」

そういえば、倭姫命が滞在した坂田宮は、鈴鹿山脈の北側(滋賀県米原市)に位置する。
そして甲可日雲宮は、鈴鹿山脈の南側にある甲賀市の辺りにあったと考えられている。
鈴鹿も米原も甲賀も、かなり奥が深いと感じる。(撮影日:2013年10月28日、3月24日)

 

なお、甲可日雲宮とは関係ないのだが、最後にご紹介しておきたいことがある。
「近江の厳島」こと白鬚神社(こちらは高島市)も、倭姫命の創建と伝わる神社なのだ。

白鬚神社と琵琶湖-2
白鬚神社境内(例祭の日に)
白鬚神社本殿。創建は伊勢神宮内宮と同じく、倭姫命(やまとひめのみこと)によるもの。
創建年の垂仁天皇25年(BC5年※)は、伊勢神宮内宮創建とされる垂仁天皇26年に近い。白鬚神社は伊勢神宮と同じくらいの歴史の長さがあり、同じルーツを持つことがうかがえる。

※BC5年は『古事記』『日本書紀』に記述される在位期間を機械的に西暦に置き換えた年代。参考:上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧(ウィキペディア)

白鬚神社本殿案内板

 

次回:鈴鹿の流れ星2(甲賀市と湖南市三雲:甲可日雲宮伝承地と倭姫命ゆかりの地を巡る)の予定です。


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