日枝の山道4(聖衆来迎寺と十界図の虫干し)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(36)

聖衆来迎寺
比叡山の門前町・坂本に程近い琵琶湖のそばに、聖衆来迎寺という天台宗の寺がある。
毎年8月16日に「十界図」という地獄絵図が一般公開されるので、撮影に行ってきた。
普段は拝観に予約が必要な寺なので、ぜひ伺いたいと思っていた。とはいえ、気温35度。
数年前の猛暑の日に、浅草寺でふらふらになって撮影したときの感覚が蘇ってくる。

アクセスを調べたら、大津駅から堅田駅行きの江若バスに乗れば、30分程で寺の前に着く。ちょうどお盆ダイヤだったが、大津駅9時12分発のバスがあったので、乗っていくことにした。撮影に集中できるのはありがたい。地域の足、江若バスにはいつも感謝です。

聖衆来迎寺の表門
聖衆来迎寺の表門。明智光秀の坂本城の城門を移築したものと伝えられる。
想像していたよりも、歩くことは殆どなかった。境内に入るとすぐに本堂があった。

ちなみに、聖衆来迎(しょうじゅらいごう)とは、
臨終の際に極楽浄土から阿弥陀如来と諸々の菩薩(聖衆)が現れて死者を迎えに来ること。

聖衆来迎寺は、そこ[飯室谷]からさらに下った下阪本の田圃の中にある。
・・・緑の稲田をへだてて、白壁の築地が、横に長くのびている景色は美しい。
ことに横川から飯室谷を経て辿りつくと、ほっとした気分になる。
白洲正子『近江山河抄』「日枝の山道」

聖衆来迎寺本堂
聖衆来迎寺は由緒ある寺で、790年、天台宗の宗祖・最澄が地蔵教院として建立した。
1001年、比叡山横川恵心院の源信(恵心僧都)が弥陀来迎を感得し、聖衆来迎寺と改める。
国宝と重要文化財が多い寺だが、国宝の十界図は国立博物館等に預けられている。
十界図の実物は鎌倉時代のもので、毎年3枚ずつこの日のために里帰りする。

十界図のうちの一枚
十界図のうちの一枚。全部で15枚(15幅)あり、正式名は「絹本著色六道絵」。
15幅一同に公開されるのは模写で、撮影も許される。
模写といっても彩色が素晴らしく、遜色ない。近くで見ることができる。

十界図の一幅から四幅
十界図の一幅から四幅。閻魔王庁図から始まり(一番右)、地獄絵図が続く。
この寺の開祖・源信が『往生要集』の中で説いた「六道」を主に絵画化したのが十界図だ。

十界図の正式名にある「六道」とは、仏教の世界観から出た六つの迷いの世界だという。
地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上界である。
これに声聞、縁覚、菩薩、仏界の四つの悟りの世界を合わせて「十界」と呼ぶ。

十界図の四幅から十三幅
十界図の四幅から十三幅。比叡山の僧侶の方が見学しておられた。

真夏の近江平野は、焦熱地獄さながらの暑さだが、本堂の中は涼しく、時折比叡山から吹いてくる風が、なんともいえず快い。これを「極楽のあまり風」というと、村の人達が教えてくれたが、昔の人はほんとうにぴったりした名前をつける。-白洲正子『近江山河抄』「日枝の山道」

十界図の十四幅から十五幅
十界図の十四幅から十五幅。
聖衆来迎寺の開祖・源信は、「往生要集」の中で極楽浄土への往生を説いている。
十界図の最後で、念仏による六道輪廻からの解脱を表しているらしい。

聖衆来迎寺境内
聖衆来迎寺境内。右から本堂、客殿、開山堂。
客殿内部の襖絵は、江戸幕府の御用絵師だった狩野探幽や狩野派の手によるもの。
建物も庭園も見事な客殿だった。


境内の奥には、織田信長の小姓・森蘭丸の父、森可成(もりよしなり)の墓がある。
可成もまた信長に仕えた武将で、美濃金山城主だったという。
のちに宇佐山城(大津市錦織町)の城主となるが、坂本の合戦で討死する。
その亡骸は当時の聖衆来迎寺の住職によって寺に葬られた。

信長の比叡山焼き討ちの際、可成の墓があったおかげで、寺は焼き討ちを免れた。
当時の住職は、仏像・仏具などを船に乗せ、対岸の兵主大社へ避難させたという。
この寺には国宝や重要文化財が残った。比叡山の正倉院とも呼ばれている。

聖衆来迎寺境内の鳥居
境内の鳥居。

聖衆来迎寺境内の石仏
境内の石仏。歴史を感じさせる風合いで、本堂に向き合うように数体が立つ。

十界図を見学する人達でにぎわう聖衆来迎寺本堂
十界図を見学する人達でにぎわう本堂。

聖衆来迎寺参道
聖衆来迎寺参道。松並木と白壁が美しい。奥に表門が見える。
そういえば、堅田の浮御堂も、源信(恵心僧都)が開いた寺だったと思い出す。

恵心僧都が感得したのは、横川であるとも、飯室(いむろ)谷の安楽律院とも、坂本の聖衆来迎寺だったとも伝えている。が、ひとたび感得すれば、二度と消え失せる映像ではないから、どこと定めるにも及ぶまい。それより彼が横川から飯室谷、さらに平地の来迎寺へと、だんだんに下って来たことの方に私は興味を持つ。それは日枝の神霊が、奥宮、里宮、田宮と順々に降りて来るのに似なくもない。浄土の思想を広めるために、必要上そうなったともいえるが、最澄が日枝の山霊に救いを求めたように、源信の中にも、古代の神が巡った道が根強く生きていたに違いない。-白洲正子『近江山河抄』「日枝の山道」

 

次回:比良の暮雪2(比良山と堅田)の予定です。


View Larger Map