沖つ島山7(近江源氏・佐々木氏ゆかりの地を巡る。氏神「沙沙貴神社」と京極家の菩提寺「徳源院」)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(32)

沙沙貴神社楼門
白洲正子さんの紀行文『近江山河抄』「沖つ島山」は、近江源氏・佐々木氏の話で終わる。
そこで今回は、「沖つ島山」の連載の締めくくりに、佐々木氏ゆかりの場所をご紹介したい。

佐々木氏は、近江国蒲生郡(現・滋賀県近江八幡市安土町)佐々木荘を発祥とする。
宇多天皇を祖とする宇多源氏の一流とされ、安土の沙沙貴神社(写真)を氏神としている。
近江源氏とも呼ばれ、後に六角氏(本家)、京極氏、大原氏、高島氏の四家に分かれた。

沙沙貴神社のなんじゃもんじゃ
現在の沙沙貴神社は、花の神社(近江百華苑)として、なんじゃもんじゃの木で有名。
なんじゃもんじゃは、ヒトツバタゴというモクセイ科の落葉高木で、5月に白い花を咲かせる。(なんじゃもんじゃとは名前がわからないものの総称で、代表格がヒトツバタゴだとか。)
沙沙貴神社では例年5月中旬に開花、5月末まで楽しめる(撮影日:2013年5月26日)。

沙沙貴神社鳥居
沙沙貴神社の歴史は古く、佐々木氏以前に沙沙貴山君という豪族により祀られている。
佐々木氏と沙沙貴山君との関係は、今もはっきりしていない。

瓢箪山古墳(安土)
沙沙貴山君の墓、関連人物の墓とも言われているのが、繖山の麓にある瓢箪山古墳。
古墳時代前期(4世紀)の前方後円墳で、1958年に国の史跡に指定されている。

白洲正子さんが『かくれ里』 「石の寺」の中で、付近には佐々貴神社もあり、狭々城山君の墓と伝えられる前方後円墳もある。と書いているのが、瓢箪山古墳である。

場所は安土町桑実寺で、竹林に囲まれた道を抜けると、桑実寺の石段の前に出る。
桑実寺から山道を登れば、佐々木氏の嫡流・六角氏の居城だった観音寺城に出る。
白洲正子さんは、佐々木氏について次のような興味深い推察をされている。

ササキはミササギから出たともいい、御陵を守るだけでなく、古墳造りの集団も統率していたに違いない。観音寺山は一名繖(きぬがさ)山とも呼ばれ、天蓋のような形から名づけられたらしいが、周囲には古墳が密集しており、祖先の墳墓をきぬがさでおおう意味もあったと思われる。古墳に石はつきもので、麓には奥石、石寺、石馬寺などの名称が見られ、観音寺城や安土城の石垣も見事なものである。古墳文化が衰微した後も、近江に優秀な石工の技術が残ったのは、沙沙貴山君の伝統による。観音寺山に城を構え、沙々貴神社を祀って、近江に君臨した佐々木の一族が、彼らと無縁であったとは考えられない。-白洲正子『近江山河抄』

米原市清滝で咲いていた夏の花(ムクゲ)
六角氏の始祖は佐々木泰綱で、鎌倉幕府から愛知川以南の南近江を与えられた。泰綱が京都の六角に屋敷を構えたのが、六角氏のはじまりとされている。

同族の京極氏は、愛知川以北と柏原(米原市)の北近江を与えられた氏信に始まる。
氏信は京都の京極高辻に屋敷を構えて「京極」を名乗った。

室町時代以降、近江の覇権をめぐって両家は敵対する。

戦国大名として台頭した六角氏は、戦国時代には観音寺城を居城に南近江一帯を支配した。しかし永禄11年(1568年)、上洛する織田信長によって観音寺城は落城する。以降、六角氏は歴史の表舞台から遠ざかることとなった。

京極氏は、足利尊氏に仕えた高氏(道誉)の活躍により、室町幕府の四職家として繁栄。
だが、浅井氏の台頭や家督争いにより衰退し、北近江を追われることとなる。
その後、高次が兄弟で信長・秀吉・家康に仕え、関ヶ原の合戦で手柄をたてて家を再興。京極氏は外様大名として繁栄し、明治維新を迎えている。

京極氏の菩提寺が、関ヶ原に近い清滝という集落にある(滋賀県米原市清滝)。
京極氏の所領だった柏原(米原市)の奥にあって、寺の名を徳源院という。
白洲正子さんが「沖つ島山」の最後に紹介していたので、ぜひ訪ねてみたかった。

清瀧寺徳源院山門

ひなびた集落をはずれると、桜と紅葉の並木がつづく参道に入り、石垣積みの土塀が見えて来る。山門を入ったところには、大きなしだれ桜があり、閑散とした境内には人影もない。そのつき当りの石段を上った土壇の上に、佐々木一族の墓がずらりと並んでいる。-白洲正子『近江山河抄』

京極家墓所上段(左側)

京極家墓所上段(右側)
京極家墓所上段。始祖から18代まで、歴代当主の墓が18基並ぶ。
立ち並ぶ宝篋印塔が圧巻。墓所全域が国指定史跡となっている。

京極高次の石廟
19代当主、京極高次の墓所。石廟になっている。
幼少期は信長の人質になり、成人して秀吉に仕え、関ヶ原の合戦では徳川方についた。
浅井三姉妹の次女・お初と結婚。京極家中興の祖とされる人物。

京極家墓所下段(高政、19代高次、24代高矩、25代高中、22代高豊の墓所)
左から、高政、19代高次、24代高矩、25代高中、22代高豊の墓所。
中興の祖である高次を中心に祀られている。

徳源院は弘安6年(1283年)、京極氏の初代・氏信が、清滝寺として創建している。
寛文12年(1672年)、22代高豊が播磨の所領2村とこの地を交換して、清滝寺を復興。高豊は、近隣に散在していた歴代当主の墓碑を一箇所に集めるとともに、三重塔を寄進。父である21代高和(丸亀藩初代)の院号に基づいて、徳源院と改称した。

現在は天台宗の寺になっている。檀家を持っていない寺だと伺った。
鐘楼の復活と三重塔・土塀修復に伴う浄財を、現在広く募集しておられます。

京極家墓所下段(多度津藩当主の墓所)
徳源院には、分家の多度津藩(香川県)当主の墓もある。
多度津藩のほか、四国丸亀藩、宮津藩、峰山藩(京都)、豊岡藩(兵庫)の5つの大名家として、京極氏は繁栄した。

▼京極家墓所の詳しい配置図は、徳源院HPを御覧下さい。
http://tokugenin.maibara.jp/?page_id=53

徳源院の庭園(池泉回遊式庭園)
徳源院の庭園(池泉回遊式庭園)。
江戸時代初期の典型的な作風で、小堀遠州の作とも言われる。
清滝山を借景とする見事な庭園で、秋の紅葉の頃はさぞや美しいだろうと思う。

今回、ご住職の山口さんにお願いして、お寺を開けて拝観させていただいた。
最初に見せていただいたのが青もみじの庭園で、一枚の涼しげな絵を見ているようだった。柏原の駅から歩いてきた私に冷たいお茶を出してくださり、本当にありがとうございました。(撮影日:2013年7月28日)

今回、徳源院に立ち寄りつつ、柏原から醒井まで中山道を歩いたので、次回ご紹介します。

 

次回:伊吹の荒ぶる神1(中山道・柏原宿から醒井宿を歩く~前編)の予定です。


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(追記)

滋賀県教育委員会の埋蔵文化財活用ブックレットに、京極氏のことが詳しく出ています。
後から気がついたので、リンクを追記しておきます。ご参考になさってください。(2013年9月10日)

埋蔵文化財活用ブックレット9(近江の城郭7)京極氏遺跡群 -京極氏館跡・上平寺城址・弥高寺跡-(PDF:2,704KB)

埋蔵文化財活用ブックレット17 東海道をめぐる攻防-米原・醒井・柏原をめぐる-(PDF:2,422KB)