大津市衣川/鞍掛神社 2013年例祭の写真(後編)~大友皇子最期の地の伝説が残る神社、7/23の皇子の命日にちなんで

鞍掛神社拝殿で舞う巫女さん-1

陽成天皇の勅命によって882年に創建された鞍掛神社(滋賀県大津市衣川2丁目)。
天智天皇の子、大友皇子(弘文天皇)が最期を迎えた場所という伝説が残る場所です。
衣川(きぬがわ)は、大津市北部の交通の要所で、堅田の隣に位置する町です。

鞍掛神社の伝承は、日本書紀と異なります。
壬申の乱で敗れた大友皇子は、従者と共に衣川の地に落ち延びました。
皇子は乗ってきた馬の「鞍」を柳の木に「掛」けると、自ら命を絶ったと伝わっています。伝承では、大友皇子の最期をみとった二人の侍臣がいて農民となって衣川に定住しました。その子孫は同じ名字を名乗るようになり、鞍掛神社の氏子がその末裔だと言われています。

堅田でお会いした中に、鞍掛神社の氏子の方がおられて、今回撮影をお願いしました。
私はお寺や神社が好きというよりも、寺社を守っている方に会うのが好きです。
掃き清められた境内や古い建築、大きな木や緑、神職の方の羽織袴姿やぴんと伸びた背中。そういうものを撮ると、こちらにも清らかなものが流れ込んでくるようで、無心になれます。だから私は、伝統を裏方で支える人に敬意を感じるし、心惹かれるのかもしれません。

大友皇子の命日は7月23日とされるため、鞍掛神社では毎年7月に例祭を行なっています。
天智天皇を祀っている近江神宮から、宮司さんがお見えになっての例祭です。
今回掲載しているのは、2013年7月14日(日)に行なわれた例祭の後半部分になります。

神事に使われる釜(鞍掛神社境内)
例祭の始まる前から、拝殿の隣の竈に火が入っていて、お湯が沸いていました。
巫女さんが拝殿から竈の前に移動します。

巫女さんによる神事-1(鞍掛神社例祭)
竈の前で、巫女さんによる神事が始まりました。

巫女さんによる神事-2(鞍掛神社例祭)
竈のお湯の中に、お神酒を注ぎます。この後、清めの塩らしき粉末を入れていました。

巫女さんによる神事-3(鞍掛神社例祭)
ご神木らしい木の枝で、竈の中をかきまぜるような動きを繰り返します。
この後、お湯を金属製の大きなひしゃくですくって、地面に数回撒いておられました。

鞍掛神社鳥居

鞍掛神社本殿から献撰の供物を下げる様子(鞍掛神社例祭)
鞍掛神社本殿から、献撰の供物を下げる様子です。

鞍掛神社本殿の扉を閉める(鞍掛神社例祭)
近江神宮の宮司さまによって、鞍掛神社本殿の扉が閉められます。

鞍掛神社本殿
扉が閉められた状態の、いつもの鞍掛神社本殿です。

鞍掛神社例祭
最後に、鞍掛神社本殿の脇で、神事が始まりました。

突然の雨に濡れる境内(鞍掛神社例祭にて)
ところが一転、激しい雨が降り出します。

変更を指示する近江神宮の宮司さま(鞍掛神社例祭にて)
雨のため、近江神宮の宮司さま(一番左)の指示で、例祭は拝殿で行なうことに。
ちなみに撮影者(兼松)は、木の下でなんとか写真を撮っていました。

拝殿の屋根の下で例祭を行う近江神宮の宮司さま-1(鞍掛神社例祭にて)
鞍掛神社拝殿の屋根の下で例祭を行う、近江神宮の宮司さま。
本殿の朱塗りの屋根と、背後の竹林の緑が、雨の中とても美しかったのを覚えています。

拝殿の屋根の下で例祭を行う近江神宮の宮司さま-2(鞍掛神社例祭にて)
鞍掛神社拝殿の屋根の下で例祭を行う、近江神宮の宮司さま。
そして神職の方がお二人、巫女さんがお一人。
写真には写っていませんが、その後ろで氏子の皆さんが頭を下げて立っておられます。

拝殿の屋根の下で例祭を行う近江神宮の宮司さま-3(鞍掛神社例祭にて)

拝殿の屋根の下で例祭を行う近江神宮の宮司さま-4(鞍掛神社例祭にて)
雨はどしゃぶりとなり、撮影者も拝殿の下へ移動。辺りも暗くなっていました。
拝殿の屋根の下で引き続き例祭を行う、近江神宮の宮司さま達。

拝殿の屋根の下で例祭を行う近江神宮の宮司さま-5(鞍掛神社例祭にて)
神事が終わり、外を見やる近江神宮の宮司さま。
この後、氏子の皆さんに向けてお話をされて、鞍掛神社例祭は終わりました。

豪雨に濡れる鳥居(鞍掛神社例祭にて)
拝殿の背後を見やれば、豪雨に濡れる鳥居。この雨はしばらく降り続きました。

『懐風藻』の巻頭には、大友皇子の詩がのっている。その前に簡単な伝記が記してあるが、それによると、皇太子は淡海の帝(天智天皇)の長子で、風貌人にすぐれてたくましく、眼光が鋭く輝いていたという。唐使の劉徳高が、この御子はふつうの人間ではない、日本には過ぎたるものだ、と評したとも書いており、多少の誇張はあるにしても、柔弱な貴公子でなかったことは確かである。
(中略)

二十歳になった時、皇子は太政大臣に任ぜられたが、博学多才で、文武に長じ、威服しないものとてなかった。二十三歳で皇太子に立った後は、広く帰化人の学者たちを用いた。太子は天性利発な上、故事を好み、筆を下ろせば美事な文章となり、言葉に出す時は立派な論を為した。彼と議論する人々は、その博識に驚嘆し、短時日の中に、文藻が磨かれて行くのに目を見はった。が、不幸にして壬申の乱に会い、天命を全うせずに亡くなった。時に二十五歳。

白洲正子『近江山河抄』「大津の京」

大友皇子は日本で始めて「五言の詩」を作ったことから、学問の神として信仰されてきました。1870年(明治3)になって弘文天皇と追号され、天皇として認められています。ただし即位したかどうかはっきりしておらず、大友皇子と表記されることも多いようです。そのため、当ブログでも併記する形でご紹介しています。

その墓所(弘文天皇陵)は、大津市中部の三井寺の北、大津市御陵町にあります。
御陵町の「御陵」は、弘文天皇陵に由来します。その隣の皇子山という地名もそうです。
そして三井寺は、大友皇子の息子が、父の菩提を弔うために建立した寺でもありました。
皇子山の北、錦織町には大津宮の遺跡があり、近江神宮はそのそばにあります。

▼歴史の宝庫、弘文天皇陵周辺については、こちらでご紹介しています。
大津の京5(壬申の乱と瀬田の唐橋、弘文天皇陵、そして三井寺の桜)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(11)

▼鞍掛神社(大津市衣川2丁目)

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▼弘文天皇陵(大津市御陵町3)。地図の一番北に堅田、西は京都です。

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